白山町円福寺〜八百比丘尼伝説の地


もしも不老不死の身体と永遠の若さを得ることが出来たらどんなことになるのだろう?

人間、誰しもが年老い必ず死にゆく運命だけあって、一度はそんな夢を見るものである。

しかし本当に不老不死を手に入れたら、実際にどんなことが起こるのか?

そんな伝説の人物がいる。



人間の長寿世界一は、ギネスブックなどの公式記録では122年164日とされている。
非公式の記録では152歳まで生きたとされるオールド・パーの異名を持つトーマス・パーや、本当かどうか定かではないが200歳をもこえた人がいたという記録もある。
長寿になればなるほど宗教的な意味合いも強くなってゆく気がする。

Wikipediaより長寿



そして日本にも800歳生きたとされる伝説の人物がいる。

八百比丘尼。
(はっぴゃくびくに・やおびくに)

このお方は愛知県春日井市の昔話に登場する。



このお話に出会ったの2004年、この伝説を元に作られた新作オペラ白山椿が春日井市市民会館で上演され、しぶーのはその時オーケストラピットの中で演奏をしていた。


大まかなあらすじ

 昔々のまた昔、当時は今の海岸線よりもすっと奥まった春日井の白山町の辺りにまで海が広がっていた。
 大風の最中、村に火の手が上がり、少女が瀕死の火傷を負う。命を救う最後の手立てとして飲まされた薬が人魚の肉。人魚の肉を食した少女は火傷が癒えただけではなく、永遠の若さと命が授かることになる。
 『永遠の若さと命』は、与えられた者にとって幸か不幸か。10代の若さを保ったまま時の流れに置き去りにされ、周りの人々は次々と死に絶えた。女は比丘尼となり巡礼の旅 に出て、行く先々で人々の苦しみを代わり、身を粉にして人々につくした。
 やがて時は八百余年も流れ、満開の椿咲く春の日に故郷の白山にたどり着いた比丘尼は、念仏を唱えながらの中に入り消えていったという・・・。






この八百比丘尼のゆかりの地が、春日井市白山町の円福寺にある。


愛知県春日井市白山町。

この辺りは高蔵寺ニュータウンという大規模な住宅街として開発されているが、その中にぽつんと残る森。
この森こそが比丘尼のゆかりの地として知られる円福寺のある山。



Wikipediaより円福寺



駐車場に車を停めて表参道の階段を登ります。


       しぶーの↑  嫁↑



鬱蒼と茂る森の中の、のぼりがいっぱい並んだ表参道を登ってゆきます。
冬なので落葉した木々の間から夕日が差し込みます。




やがて仁王門が見えてきます。

その手前の階段の途中、右側に小さな小さなお堂がありました。




これが比丘尼堂

お堂の下には比丘尼が入っていったというもあります。




しかしこのお堂、あちこちが痛みまくり、正直ガタガタではないか。
しかも中を覗くと空っぽのようだ。




この穴に入っていったのか?
意図的にふさがれているのか、とても人が入れるほどの大きさはありません。



当然、照らします。



中は5メートルほど奥まで見ることが出来ますが、いかに比丘尼が小柄であったとしても、人が入れる広さではありません。




比丘尼堂のすぐ脇に、オペラ白山椿上演記念に植樹された椿がありました。
植樹された時には1mほどの木でしたが、2mほどに育っていました。






さて、




さらに階段を登ってゆくと、仁王門の手前左側に何かある。




比丘尼堂があります。



えっ?



比丘尼堂が新しくなっているのか?
比丘尼堂の場所が移ったことにより、お堂の下のの意味がなくなってしまっているような気がするが・・・。




説明板がある。



なにっ、口のいやしい女の子が食っちまっただと!?

オペラの中では瀕死の火傷を負った娘を助けるための薬として与えたとなっていたはずだが・・・。
なんだか微妙に話が違うのですが・・・。





まあ嘘に決まっているんだけどね。





実はこの八百比丘尼伝説は日本全国にある。

Wikipediaより人魚によると・・・

 若狭国のとある漁村の庄屋の家で、浜で拾った(網にかかった説もあり)という人魚の肉が振舞われた。人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入るという伝説があったが、村人たちは気味悪がって口をつけなかった。こっそり話し合い、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨ててしまった。だが一人だけ話を聞いていなかった者(耳が不自由だった説あり)がおり、それが八百比丘尼の父だった。父がこっそり隠して置いた人魚の肉を、娘がこっそり盗み食いしてしまい、娘はそのまま十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。だが、結婚しても必ず夫に先立たれてしまい、父も年老いて死んでしまった。終いには村人からは気味悪がられてやがて尼になり、国中を周って貧しい人々を助けたが、最後には若狭の地に戻って空印寺の岩窟に消えた。


どうも元々は若狭の国のお話である。

そして若狭の空印寺には比丘尼が入って念仏を唱えたという岩窟がある。

八百比丘尼入定の地。

画像出展元:Wikipedia「人魚」のページ内、八百比丘尼の項目より


春日井円福寺のは「福井までつながっている」という絶妙な設定だが、現在は比丘尼が入ったとも福井とつながっているとも何の説明も書かれていない。
なんとなくここ春日井の穴がはっきりしないのも、微妙なところで茶を濁しているのかもしれない。
語り継ぐにしても、どこかの遠い所の話というよりも、身近なところで実際にあったという設定のほうが民衆に受け入れられやすいからなのだろう。



とりあえず何の説明も突っ込みもなく出てくる人魚
人魚自体が空想上の生き物のはずなので、のっけから話の信憑性が疑われる。

人魚の伝説は世界中にあり、日本にも昔ある時期に人魚がいるという都市伝説が流れたのだろうか。

村人達は気味悪がったことから、いわゆる今現在よく知られた人魚(マーメイド)というより半魚人のようなものか?
人魚(にんぎょ)というより人魚(じんぎょ)と呼んだほうがあっているのではないか。
網にかかったというのなら生け捕りにすればよかったのに。


800年生きたという伝説なのだから、少なくとも今から800年以上前の時代ということになる。
とは言え日本では古来から八百万の神とか八百屋とか、八という数字にはとにかくたくさんという意味を持たせていた。
正確に800年というよりもとてつもなく長い年月生きたということの例えなのだろう。






この伝説、壮大な空想物語ではあるが、語り継がれるには何らかの含みがあるはずである。


人魚は絶対に食ってはならない。
それとも人魚に似た何か、いるかや鯨やトドなどの保護のためだろうか?
空想上の人魚が網にかかることはまず考えられないので、古くからの言い伝えや教えは守らなければならないということか。

食に貧しい時代にはつまみ食いは重罪であり、卑しく食うと罰が当たるという説話。

永遠の若さを手に入れたが、決して幸福ではなかった。
いずれ死ぬことを前提に精進して生きること教え、不老不死への憧れと追求の愚かさを戒めるために創られた話。





と、こんなところだろうか?


しかし、多少の変化が加わるにしても、大筋は共通した話が日本全国に伝わっているのはどうした理由か?
実際にこの比丘尼が植えたとされる椿や杉の木が残されていることから、もしかすると、ある時代に同じ名前(同じ宗派)を名乗る若い尼がたくさんいて、全国の貧しい人々を助けながら布教活動をしていたという可能性はある。







比丘尼堂を過ぎ、階段を登ってゆくと仁王門がある。

ガラスの中にライトアップされた仁王がいる。

 







さらに階段を登ると山頂広場には白山観音堂。

ここに本尊として鎌倉時代末期に作られた十一面観世音菩薩が納められている。




鐘楼の横から展望台へ行くと十一面観世音が立っていました。
石で出来たこの十一面観世音の建立は平成19年と比較的新しい。

 
見上げるほど結構巨大。


展望広場からの眺め。

春日井市に伝わる伝説では、大昔この辺りまで海が迫っていたという。

かつて海岸線が今よりも内陸部にあったという記録はあるらしいが、果たして15kmも離れたここまで迫っていたのだろうか?


Yahoo地図より春日井市白山町円福寺付近


春日井市には多くの古墳が点在しているが、その時代以前の話だろうか?
それともここからの風景を、あたかも入り江のように感じたロマンの物語だったのだろうか?





円福寺の北門をくぐって一旦外に出ます。


階段で来てから気付いたが、ここは山頂まで車で登ることが出来るらしい。
さすがモータリゼイションの本場愛知県ですが、こんなとこまで車で来んでも・・・。



円福時のその奥は白山神社がある。
一つの山に寺も神社も一緒になって祭られている。

入口には狛犬が。



狛犬には雄と雌があるらしい。
向かって右側が雄で左が雌というのが一般的らしいのだが・・・。

  

注意深く観察したが、どちらも決定付けるものはなかった。



白山神社にはお札や正月飾りを燃やす行事、どんど焼きの跡がありました。



神社の横には白山稲荷が。

 

おびただしい数の赤い鳥居が並ぶ稲荷は何故か妙に恐ろしい。







味のある手書き看板、日吉神社(山王様)とある。

「此レヨリ下ヘ40秒」

40秒!
やけに正確な。



30秒で着きました。

 








しかしこの山、保食大神の石碑や金毘羅大権現や馬頭観世音や弁財天に文殊菩薩まである。

 

  

この地方の特色なのか神仏混合、まさに信仰デパート状態。



こんな小さなものまで・・・。






三十三観音に見守られながら山を降ります。





夕闇に溶け込もうとする町並み。

太古のロマン感じつつ円福寺を後にした。



口が卑しかったとは言え、不幸にして永遠の命を持ってしまった少女。


その幸福とはいえない生き様は、一度しかない人生のはかなさと大切さを教え、今なお洞穴の中で念仏を唱え続けているはずである。


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