窯神神社から眺める瀬戸グランドキャニオン


せとものといえば、焼き物すべてを指す代名詞になっているほど有名な瀬戸焼。瀬戸物の歴史は意外にも古く、鎌倉時代から続いているとされている。焼き物に適した気候風土、森林資源と良質の陶土に恵まれたことに他ならないが、現在の瀬戸の繁栄の歴史を語る上で、欠かせない人物がいる。

それは加藤民吉という人物。

ここ瀬戸市では磁祖として信仰され、瀬戸焼の発展に大きく貢献した人物である。



愛知県瀬戸市は尾張名古屋の東側、背後を山に囲まれた町。
南は愛知万博の開催地の長久手町、北は美濃焼きの大産地である多治見市とも隣り合わせの町。


その瀬戸市の中心地、多くの窯元が軒を連ねる丘の裏山の山頂に、窯神(かまがみ)神社があります。



瀬戸市の駅前中心地。

瀬戸市の中心地には瀬戸川が流れ、せともの屋が立ち並ぶ地域。
その名も陶本町。



少し中に入ると、どこか懐かしさを感じさせる昔ながらの町並みが残っています。



住宅街の中の細い道を登ってゆきます。

この住宅街の中にも多くの製陶工房があり、通りがてら作業している様子を間見ることが出来る。



坂を登りつめると、そこは窯神神社

祭事のため進入禁止となっていますが、たしかこの看板は年中出ています。



山頂広場の様子。
 
ここに祭られているのは秋葉権現、天満威徳天神、金毘羅大権現、そして偉大なる磁祖、加藤民吉翁。
やきものの神社(窯神)として市民の崇敬を受けています。









加藤民吉は江戸時代中期、1772年(安永1年) 焼き物の町瀬戸に生まれる。


当時の瀬戸は陶器の生産をしていたが、九州の品質のよい有田焼に押され生産が減ってしまっていた。
有田焼は伊万里とも呼ばれ、その白地に青色を基調に美しい絵付けがなさた磁器がもてはやされた。

1804年(文化1年) 、津金文左衛門や加藤唐左衛門の力を借りた加藤民吉は磁器の製法を修得するために九州へ渡る。
1806年(文化3年) 瀬戸に帰り、有田で得た技術を元に 53歳で没するまで染付磁器の研究を続けた。
そしてその製法を人々に伝え、瀬戸は再び「焼き物の町」として栄えたという。

資料によって年代が異なるのは有田を出た時と瀬戸へ戻った時のタイムラグだろうか?


その功績をたたえ、1916年(大正5年) 窯神神社に祭られる。



瀬戸にとって、有田の技術をもたらしたいわば英雄なのだが・・・。




一方、有田では・・・


Wikipediaより有田焼の一部

当初、日本唯一の磁器生産地であったこれらの窯には、鍋島藩が皿役所と呼ばれた役所を設置し、職人の保護、育成にあたった。生産された磁器は藩が専売制により全て買い取り、職人の生活は保障されていたが、技術が外部に漏れることを怖れた藩により完全に外界から隔離され、職人は一生外部出ることはなく、外部から人が入ることも極めて希であるという極めて閉鎖的な社会が形成された。しかし、磁器生産は全国窯業地の憧れであり、ついに1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が潜入に成功し、技術が漏洩する。以降、瀬戸でも磁器生産が開始され、東日本の市場を徐々に奪われていく。江戸末期には全国の地方窯でも瀬戸から得た技術により磁器の生産が広まっていく。しかし、日本の磁器生産トップブランドとしての有田の名は現在に至るまで色褪せていない。また、江戸時代の有田焼を一般的に古伊万里と称する。



つまり加藤民吉はこの技術を無断で持ち出した産業スパイであり、技術を盗まれた有田は後の大幅な衰退を余儀なくされたという。

当時でも伝統技術のスパイ行為は大罪で、加藤民吉は決死の覚悟で臨んだ。
現地では地元民になりすますために結婚し家庭を設けている。

その後、家族を捨て夜逃げ同然で瀬戸へ帰る。
後に有田での元夫人は後を追って瀬戸を訪ねたが、すでに瀬戸でも家庭を設けていたことを知り失意のまま自ら命を絶った。
毎年9月に行なわれるせともの祭りは必ず雨に見舞われ、元夫人の
祟りだという伝説になってる。



このエピソードを元に、2005年愛知万博を記念してオペラ「民吉」が作曲され、上演された。
しぶーのはその後のリメイク版、瀬戸市文化会館公演で演奏に参加している。







神社のど真ん中に、高さ1mほどの小さな杉の木と、飲水思源と文字が彫られた石碑がありました。

「水を飲みて源を思う」とは「物事の基本を忘れてはならない」、「人から受けた恩は忘れてはならない」という意味の中国の諺。


 説明板によると、

残心の杉
加藤民吉翁は、1804年(文化元年)、九州へ磁器製法の修行の旅に出発しました。1807年(文化4年)修行を終えた翁は、修行先の福本仁左衛門家を去るにあたり、記念に杉を植えました。この杉は長崎県佐々町に「残心の杉」と命名され現存し、大切にされています。民吉翁の九州修行200年を記念し、この大杉の枝を取り寄せ、東京大学附属愛知演習林の指導・協力により挿し木・育成し、ここに植樹しました。

飲水思源碑
民吉翁は、九州での修行の際、本渡(現天草市)の東向寺で菱野(瀬戸市)出身の天中和尚に大変お世話になりました。瀬戸市は1959年(昭和34年)、その東向寺開山300年記念として「民吉翁之碑」を贈りました。磁器の原料でもある天草陶石のこの「飲水思源」碑は、その返礼として1962年本渡市より贈られたものです。



今では何とか友好を保っているようです。

あちらの地元では通称「裏切り者の杉」となっていないだろか・・・。


ある会社が、ライバル会社から送りつけられたウイルスによって機密が漏洩する。
そのことによってライバル会社は発展し、その会社は衰退する。
その会社に、ライバル会社からトロイの木馬像が贈られた。
お礼にその会社は「誰のおかげで飯が食えとるんじゃ」と刻まれた碑を贈った。




瀬戸市と九州の絶妙な関係が伺える・・・。














地図を見ると、窯神神社の北側にかなり広大な空白の区域。



航空写真で確認すると、なんだここは?

ここは瀬戸焼きの原料である陶土を採掘するための大規模な露天掘りが行われているところ。

(地図・航空写真引用)
Yahoo地図より瀬戸市中心部



窯神神社の裏手に当たる森の間から、大規模な露天掘りの一部を垣間見ることが出来る。



残念ながら木々の間から垣間見るだけなので、その全貌を見渡すことは出来ないが、遠目にもかなり大規模に行われていることがわかる。
露天掘り現場はもちろん立ち入り禁止区域だが、かつてはもう少し近くで眺めることが出来たらしい。


まるで宇宙刑事○ャバンのマクー空間さながら、その異様な光景は瀬戸グランドキャニオンとも言われている。





山頂広場には低いながら展望台がありました。


登ってみましょう。


まずまずの景色。
窯神神社の南側、瀬戸市の中心部を見下ろすことが出来ます。





新しいトイレが出来ていました。

焼き物を使った微妙におしゃれなデザインになっていました。


ちなみに便器はT○T○だった。

T○T○(元東○陶器株式会社)の本社は福岡県北九州市。


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