月待ちの塔
以前訪れた曽木町の観光パンフレットにはこんなものがあった。
過去記事・・・曽木公園、 幻の「日暮し乃瀧」を求めて、 おせん淵を探す、 日暮し乃瀧再訪
廿二夜の月待塔
げったい?
調べてみるとこれは「月待ち(つきまち)の塔」
日本各地に古来からある民間信仰で、特定の月齢の日に集まり、念仏を唱えたり宴会をして月の出を待ち、願掛けをしたり悪霊を払ったする行事。
月待供養ともいい、明治ごろまで盛んに行われていたものだとか。
観光パンフレットによると、曽木町には二十二夜の碑と二十三夜の碑が残っているようだ。
曽木町のそれは街道の脇にぽつんとある。
道祖神とともに佇む月待供養塔。
きれいな案内板が立っている。
陰暦の二十二日の夜、月の出を待ってこの塔に供物を供え、願い事のある人は月の出を待ち、
座らずに立っていて(お立ち待ち)月を拝んで願をかけた。
曽木では二十一夜様、二十二夜様、二十三夜様と続く。
各地の月待の夜は、子供達にとっても楽しいお祭りであった。
この月見塔には明治卅二年(一八九九年)七月建之 上両組とある。
これは中切のの廿三夜の月見塔と同じ造立である。
NPO法人曽木まちづくり協会
建立が明治32年ということなので、意外と新しいと思った。
人々はここに立って月を拝み、何を思ったのやら。
わざわざ石碑まで建てて何を刻むと思えば22夜、そこまで重要な日だったのか?
そして微妙に気になるのは、立っている方角は月の出てくる方角とは関係ないようだ。
地図はGoogle mapより引用
ちょうどあっちの方角から月が昇る。
月齢22~23の月が昇る時刻と言えば今の時計で大体深夜1時頃になる。
電気のなかった昔の暮らしから言えば、結構深夜でなはいか?
こんな時間まで子供達が起きていたのも驚きだが、ハロウィンのお祭りのような感覚だろうか?
こちらは廿三夜の塔。
先ほどの二十二夜よりも少しわかりにくいところにある。
こんな感じで立って待ったのだろうか?
案内板によると曽木町では戦後しばらくこの風習が残っていたそうだ。
ちなみにこの碑は北を向いているのでこの方向は間違い。
調べてみると、名古屋市内に尾張地方に残る月待塔で最古のものがあるというではないか。
名古屋市内瑞穂区、思いっきり都心部、地下鉄堀田駅からすぐのところに・・・。
濱神明社がある。
都心だけに道路以外に3方向を建物に囲まれ、参道も道路によって分断されている。
何で夜中?
あったあった。
調べによると建てられたのは天正17年(1589年、安土桃山時代)、十七夜待ちの塔だそうな。
梵字で何やら書いてある。
読めん。
ううむむ、今は街中で月の出を拝むことは難しいが、かつてこの場所がまだ海辺だった頃。
人々は神社の正面遙か彼方、豊田の山の稜線からい出る月を拝み何を思ったや・・・。
さすがに真夜中の写真ではよくわからんということで、Google mapの画像を載せておきます。
三方向が建物に囲まれている
画像はGoogle mapより引用
手水場が道路の向こう側にある
画像はGoogle mapより引用
月の出を見たことがあるだろうか?
もちろんないわけではない。
ただ、「初日の出」のようにイベント感がないので、印象に残っていない。
というわけで、我々も昔の風習にならって月の出を拝んでみようか。
某月某日深夜12時半頃、今宵月齢は22。
宴会の替わりに弁当を用意した。
車の中で月が出てくるのを待ち、いよいよとなったらお立ち待ちをしようか。
都会に住むと、山の稜線から月が出る様子が拝める場所が少ない。
日の出と月の出は微妙に違いがある。
日の出は(海から登ると仮定して)水平線から太陽が顔を出す瞬間を指す。
日の入りは水平線に太陽が沈みきる瞬間を指す。
昼と夜の長さが等しい秋分、春分の日も厳密には太陽の直径分昼の方が長い。
反面、月は満ち欠けがあるので「満月と仮定した」月の中心点が水平線に達した時を出入り時刻とすることとなっている。
なので月齢によっては月の出時刻よりもちょっと早めにスタンバイしなければ、出てくる瞬間を見逃してしまうこともある。
22夜の場合上側が欠けて登ってくる(なぜか下弦の月というが)ので問題ないが。
残念ながら今宵は思いっきり雨。
月の出どころではない。
再び某月某日深夜、月齢22。
この日も弁当を用意し、月の出を待った。
つうか、景色のいい場所で夜景を見ながら弁当を楽しむ口実なだけだが。
ちなみに22夜は日付またいで午前1時頃になる。
気をつけないと日にちを間違えて一時間くらい余分に待つ羽目になる。(←なった)
しかし待てども待てども月は出てこず。
まあ出てきても手持ちの小さなデジカメでは撮影困難なわけだが・・・。
半月の代わりにハムの映像をお楽しみください。
この日は曇り、やがてだいぶ登った月が雲の間からぼんやりと浮かび上がってきた。
つまり月待ち失敗。
太陽と違って天気が少しでも悪ければ望めないことも多い。
チャンスは月に一度きり、実はなかなか成立が難しい儀式なのなのかもしれない。
しかしこの行事、毎月行なったのだろうか?
それとも田植え前とか収穫後とかの節目に行ったのだろうか?
季節によっては外の寒空の下、月が出るまで立って待つというのはかなり過酷でもある。
盛んに行われていた行事がなぜ廃れてしまったのか?
風流が好きなこの日本で、片鱗すら残らず見かけなくなってしまったのか?
お月見のように行事として残っていても良さそうなものだが・・・。
宗教的なものというよりも、村人たちの親睦と結束を深めるために定期的に集まる口実なのは理解できる。
太陰暦でめぐる季節のサイクルを村人全員で共有し、農業などの足並みを揃える役目。
という表向きの他に役割があったのではないか?
以下はしぶーのの全くの勝手な想像であり根拠のない仮説である。
子孫繁栄のための大切な日に、若夫婦以外の邪魔なジジババやガキを外に連れ出すいい口実とか?
月待の間、家の留守を司る人々の間で夜這いのような風習があったとか?
祭事を口実に夜遊びが許された日に、月の出を合図にお開きにする単なる時計のような役割とか?
かたちが違えども全国各地にあり、碑まで立てていることから、大切な行事だったことはうかがえる。
その意味を失った現代でも、この風流なイベントは残っていて欲しい。
何かと忙しい現代人、ふと夜空を見上げ、月を愛でる時間があってもいいじゃないか。
(2020.4.17)