管理人の独り言4

ここは管理人しぶーのが日ごろ感じたことや気づいたことを徒然と書き綴るページです。

チカーミラーの量産中

 趣味の電気工作で作ったチカーミラー、リペア関係の人に大好評で、職人さんよりいくつか依頼を受けました。一つ一つの工程がすべてフリーハンドで、一本一本地道に半田付けしてキサゲややすりで磨く為時間がかかるが、鏡の大きさ、角度、軸の長さ、光源など細かい依頼に合わせての製作です。
 ギターの中を覗く4cmの大きな鏡、クラリネットなどの管楽器の中の割れを点検する直径1cmのものなども製作中。

 夜な夜な手を真っ黒にしながら少しずつ削っては磨きを繰り返しています。まったくもって趣味の世界です。


直径1cmの鏡が入る。1cmの鏡は注文しなければ売ってない。


一週間

日曜日には市場へ出かけて、糸と麻を買ってくる(中略中略中略中略略・・・・)。

 誰もが小学校で歌った記憶がある歌だが、子供心に突っ込みどころが満載で、歌いながら無理がありすぎる設定にかなり違和感を覚えたものだった。

 風呂は沸かしすぎているだろうし、火を止めていたのなら入る頃にはとうに冷めている。にしても風呂、もっと入れよ。
 そうか友達は泊まっていったのか・・・。
 糸巻きをしなかったのなら他に何をしていたというのだ?しなかったことをわざわざ言わんでよろしい。そしてさらに、一日くっちゃべっていることを仕事として友達に言うのか?そもそもこの人の一週間の中には仕事が全然含まれていないではないか。

 歌詞のはちゃめちゃな内容とは裏腹に、妙に物悲しいロシアの曲調に、遠い異国の生活や文化、考え方の違いなのかなあ・・・としみじみ思った記憶がある。

 原曲では友達ではなくて恋人となっているので、水曜日にやってきて一泊して翌日帰るというのも納得が行く。ロシア娘ののんきさを歌ったコメディーソングらしいのでこれでいいのだ


悪は滅びるべきか

 最近ニュースで謝罪がやたら多い。

 企業の不祥事やタレントのうっかり失言などが世間を騒がせているが、インターネットが発達したおかげで昔に比べ一個人の意見が世の中に広まりやすくなった。かつてなら井戸端会議レベルのご近所で済んだであろう話題でも全国的に広まりやすくその影響力は計り知れない。
 
 ただ心配なのは、その事実の全貌を知らない人や、関係がなかった人までをも巻き込んで騒動が大きくなることだ。報道や噂を聞きつけただけの人々や実害をこうむらなかった人々までが面白半分で不必要なほど攻撃をするのはどうかとも思う。
 人間、無抵抗な者や弱い者に対してはとことん攻撃する習性があると見え、謝罪があろうと処分があろうととどまる所を知らない。

 罪を憎む正義の心は大切なことではあると思うが、いにしえより「目には目を・・・」「武士の情け・・・」といった、感情に任せて攻撃することは思いとどまるように諭す言葉がある。
 世の中で起こっている騒ぎを傍観していると、人間の集団心理の恐ろしさを垣間見ているような気がする。

 そして人の噂も75日、しばらくした後に人々の記憶から消え去る。

 今は個人対群集、企業対群集で、どちらかといえば一方的な攻撃だが、この先もっと大きな「群集同士の対立」という形で起こらないことを祈るのみである。


夜風を切り馬で駆け行くのは誰だ?

 数日前から熱っぽい。
 いつもなら市販の風邪薬と栄養ドリンク剤のチャンポンですぐに治ってしまうはずだが、一時的に回復はするのだがどうも効かない。どうやら今流行のインフなんとかにかかった疑いがある。
 インフなんとかは確か届出伝染病、自宅でひっそりと闘病するのではなく病院へ行かねばならないはず。連日夜になると熱が出てだるくてしょうがないので、魔王を見ないうちに病院へ行ってきた。

 インフルエンザは労働安全衛生法や学校保険法によって解熱後2日間は出勤や登校が禁止されています。仮に無理を押し切って仕事や学校に行った場合は罰せられることになるそうです。また、故意に他人に風邪をうつすと傷害罪が適用されます。故意かどうかの判断が難しいので逮捕されたケースはないそうですが、うつされた場合は損害賠償の請求が出来るそうです。
 とは言え、人混みへ行けば誰かは風邪をひいているし、ましてや満員電車の中など誰からうつるかも定かでない状態の人々にとって、ゴホゴホいっている人のそばではしっかりチャブレしておかなければならない。

 診断名はただの風邪。インフルエンザにかかると高熱ガンガン、全身ガクブル、とても数日で熱が引くほど簡単に治るものではないらしい。

※シューベルトの歌曲「魔王」。
病気の子供が父に馬で運ばれる最中、高熱にうかされ魔王の幻覚を見て、やがて死に至るという内容。
インフルエンザ脳症と言われている。事実、高熱で幻覚が見えるようになると一刻を争う生命の危機らしい。


三日坊主

 三日坊主という言葉がある。

 いやな言葉だ。
誰もが一度は言われたことはある言葉ではないだろうか?

 語源は、仕事に行き詰った人が安易に坊主になろうと仏の道に入ったものの、厳しい修行に耐え切れず三日で逃げ出すことから来ている。

 継続は力なり、確かに正しい。
しかしそこには継続せずは悪なりといった風潮が潜んでいる。

 しかし、考えようによっては三日続いただけでもたいしたものだ。三日もあれば人によっては何か一つのことを成し遂げよう。何もしていないよりもいいわけだから、とやかく悪く言われる筋合いはない。三日であきらめてしまったからといってそれで終わりではない。性懲りもなく、五日目からまた始めればいいだけである。


冷静に考えるとごもっとも


中部地方整備局豊橋河川事務所提供の矢作ダムのライブカメラより

 ライブカメラでダムを見たら、ゲートが開いていた。布で覆われて穴まで見えないが、きっと保守点検か改修工事でもやっているのだろう。
 ゲートが全開に関わらず水が出ていない。かといって上流側を見たらダムの水が空というわけでもない。
 理由は簡単、ダムの表側(上流側)にもゲートがあって、堤体をはさむように設置されている。放水の際には二つのゲート連動して開けなければならない。あの見えているゲートだけで水圧を受け止めているわけではないのである。

 郵便配達の局員は、同じ地域はいつも同じ人が担当し、自分の管轄内ではどこに誰が住んでいてその家族構成までほぼすべて頭に入っている。
 配る道順というのも決めてあり、カバンの中の郵便物はあらかじめ局内で並べられて入っている。出来るだけ効率よく、無駄がないように、一筆書きで配ればいいようになっている。

 ピアノを運ぶには専門業者の力を借りなければならない。あの大きなグランドピアノを運ぶ時、足を外して立てた状態で専用のベルトを肩にかけて運ぶ。そしてなんと二人で運ぶ。
 運搬する立てた状態から平面の据え置き状態にする際、足をつけて平らにすればいいのだが、組み立て座卓のようにはいかない。最初に3本足を付けると、そこから平面にするには足の長さの分も持ち上げなければならない。小型のグランドピアノでも、その重量は300キロを越え、いかに屈強な運送業者の二人といえども、とてもそこまでは上がらないし、上がったとしても危険だ。
 立てた状態で最初に2本付けておいてから、平面方向に倒し、下から持ち上げている間、最後の一本をつける。


ごめんよ

台所の天井に現れた不吉な黒い点。

 

ん?

あっ!お前は!

すいません、私はただの通りすがりの者です。
いや、残念ながら我が家では見逃すわけにはいかんのだ。

コイツこそ、かの有名なカツオブシムシの幼虫。
最近は暖房の効いた室内のおかげか、季節に関係なく出没しやがる。
成虫は網戸をも抜けるほどの小さな小さなコガネムシのような姿、春先から初夏にかけてどこにでもいて、どこからでも入ってくる。

迷い込む虫を細々と食する蜘蛛や、流しの裏でひっそりと落ちた食物で食いつなぐブリ太郎なら、人様の暮らしと交錯しなければ見逃してやってもいい。
しかしコイツはいわゆるタンスにはびこって衣類を食う虫、大事な弓の毛まで食ってしまう凶悪なヤツだ。


そこを何とか見逃していただけないでしょうか?
いや、見つかってしまった以上、それはならん。


外につまみ出してしまってもいいのだけれども、どうせこの寒空の下、とても生きては行けまい。
せめて苦しまずに、成仏してくれ。

すまぬ!


ち〜ん。
(合掌)


感染予防

 子供の世界では、大勢いる中の一人に突然の不幸が訪れた場合、例えば道端に落ちている普通は避けて通るべき物を誤って踏んでしまった時など、踏んだその人すべてを対象物と認定して避けるという恐ろしい掟があります。
 集団で行動する子供達の世界では、しばしば仲間の一人を村八分にするという遊びがよく流行りました。

えんがちょ。

恐らく全国区で聞いたことがある言葉。初めて聞いた人も、その呪文的語彙と「縁が切れる」様子は何となく感じることが出来る。

 同じような言葉は、それぞれの地方の方言や習慣や流行によって独特の言葉があります。ましてや子供の世界から発生した言葉なので、流行範囲も広くないことがある。
 バリヤ縁切った鍵閉めたのように言葉としてわかりやすいものから、メンチトースチャブレなどのように意味不明(これらの言葉は地方によって本当にあります)、もはや由来など探る気にもならない単なる掛け声と化したものもあります。
 それに伴ったポーズやしきたりも地方色豊かで、人差し指の上に中指を重ねたり、親指と人差し指で輪を作って両手で鎖のようにつないだり、特定の手順を踏まないと完了しなかったり効果がなかったりと独特の掟があったりします。

 学生や職場など、色々な地域出身の人が集まる場で聞いてみると、そのバリエーションの多さに驚く。そして幼少時代は大真面目にやっていたその行為を思い出し妙に恥ずかしかったりします。

 案外、古くは病や汚れや災厄を祓うまじないの呪文として、一般庶民に浸透した言葉なのかもしれない。


堂々と間違えば気づかれない?

 普段、ワープロや携帯電話のメールなどで文字を打つことは多いが、ある機会に実際に文字を書くことになった時に、あまりの漢字の描けなさに愕然とすることがある。
 機械の変換に慣れ過ぎて、簡単な漢字ですら咄嗟に出てこない。まさに脳の退化である。
 おまけに変換ミスによる、直筆なら間違えそうもない奇妙な当て字になっている文もよく見かける。明らかに間違っていても、活字で堂々と示されると見ているうちに、本当の字がわからなくなってくることもある。

 普段なにげに日常会話の中に登場する言葉の中でも、いざ文章にすると何故か不自然に思えることがある。

みてみる・みてみた・・・・どちらも「見る」ように思えてくる。ためしに2回も見たのか?
しめたしめてしまった・しまってしまった・・・思惑どうりに閉まったのか?片付けてから閉めたのか?
ひにち・・・・日も日も同じなんですが・・・。辞書的には「日日」でいいらしいが、一瞬読めない。
こんにちは・・・・きょうは今日は。意味はどちらもおなじだが、漢字で書かれると一瞬戸惑う。
いってきた・・・行ったのか?来たのか?どっちなんだ?

 正確には助動詞助詞だったりなので、意味があるはずなのだが、活字で書かれると耳で聞いた言葉にはない活字のマジックがある。
 しばらく眺めていると、妙に不安になり、一たび疑問に感じるとどれが正解かわからなくなってくる。

 学生時代に比べて、直筆で文字を書く機械が減って、ますます脳がやばくなっていないだろうか心配でもある。

文中に意図的に誤変換が混じっています。


まさか駆逐されようとは・・・。

 今の若い世代の人々の中にはレコード盤を見たこともない人もいるのではないか?
 「DJで使われている黒い大きな円盤」ということで、存在自体は知っているかもしれないが、かつて家庭で音楽を楽しむのにあれが主流だったことは、いずれ忘れ去られてしまうのだろう。
 同じようにMDLDもいつの間にか見かけなくなった。カセットテープも日常の中から忘れ去ろうとしている中、「レコード店」「ラジカセ」のように言葉として残っているのみとなりつつある。

 デジカメが出現して以来、昔ながらのフィルムを使った写真はレトロで特殊な趣味になってしまったし、用件は電話やFAXでなくてメールで済ます人も多くなった。あれほど普及したポケベルも今ではほとんど見かけず、2000円札も今や生活の中から忘れ去られようとしている。

 単なるブームか、企業や政府の策略か?とも思えるものもあるのかもしれないが、人々が実際に使いやすい物を選んでいった結果、すっかり駆逐されてしまった。


 ゆくゆくは歴史の中にほんの一文「○○に替わって○○が普及」とか、「世間ではあまり受け入れられなかった」とか記録される程度で、いつしか「おお、そんな物あったなあ・・・」と懐かしく思え、世代を感じさせるアイテムとなってゆくことだろう。
 最近そんなものが増え、その速度も速くなってきている気がする。
 
 果たして今の生活の中で、バイオリンのように300年経った後も現役で残っている物がどのくらいあるのだろうか?


痩せません

 「世の中の女性のほとんどが痩せたがっている」、といっても過言ではない。
 実際の適正体重と現在のスタイルのバランスは定かではないが、健康に問題が出るほど太っているわけでもなく、どうやら全くその必要もない人までが痩せたがっているのが現状ではないだろうか?

 それに伴ってダイエット系の商品は星の数ほど存在すると思う。

 痩せると言うことは、実際に摂取した栄養と消費したカロリーの収支が赤字になれば自然と貯蓄が減ってゆく、ただそれだけのことである。
 ただそれだけのことではあるものの、そこに大きな落とし穴があった。そこには人間の本能という大きな壁が立ちはだかり、収支がマイナスになると必然的に人間の体は空腹という信号を出し精一杯抵抗するのだ。

 効率よく楽しく運動する機器は数多くあれど、爽やかな汗の後には美味い飯が待っている。寝たままカロリーを消費する物があれど、寝ている間に消費した分だけ猛烈な空腹で目を覚ます。カロリーの低い食品で一時的に胃を膨らましても、身体が満足せず食っても食っても物足りない。

 結局、痩せてゆくにはこの本能の空腹と如何に戦うか?これにかかっている。そもそも数多くあるダイエット食品や機器に頼るということはすでに他力本願、すでに根本である空腹との戦いに負けることが前提になっている。本当に痩せるには、食より楽しいことを見つけて空腹に勝つか、空腹中枢を破壊でもしない限り極めて困難なことではないだろうか・・・?


昔の暮らし

 テレビも電気もガスも水道もなかった時代の人々の暮らしは、今の世の中に比べるとさぞかし不便だったに違いない。しかしそれは今の暮らしを基準に考えた結果。そんなものの存在すら知らなければ不便とも思わない。

 例えば一瞬にして移動が出来る装置を開発して、日常当たり前のように使う未来の人々からしてみれば、今の暮らしもさぞ不便なものに感じることだろう。しかし、もっと早く楽に移動ができたらなあとは思うものの、それ以上を知らない今、暮らしてゆく上でさして不便とも思わない。

 今現在も江戸の町から鉄の猪鉄の大蛇に乗って、わずか数時間で尾張の地を踏むことが出来る。これも昔の人から見ればまさに瞬間移動ではないか。


正確にはアルミの大蛇?

 遠くの人と会話が出来たり、居間にいながら世界中の映像が見られたり、電磁波が食品を温めたりなど、そんな物が世の中に出来るなどと昔の人は夢にも思わなかったことだろう。

 瞬間移動は今の人でも夢に描く。恐らくそんなレベルではなく、未来の暮らしは今からは想像もつかないものになるのだろうか・・・?


先人の勇気に感謝

 豚汁を作るのでごぼうを買ってきた。
 普段は手軽さに負けて、すでに「ささがき」にされて水に浸された物を買うのだが、今回は泥のついたままの状態で買ってきた。


凶器?

 それにして、もどこからどう見てもただの木の棒、とても食材に見えない。
 世の中にはこれとよく似た木の根っこはいくらでもある。その中でもごぼうは食材として認められているが、きっと他の木の根っこもごぼうと同じように食ってみたがだめだったとか・・・。


 どう見ても食えそうなきのこやふぐが猛毒だったり、どう見ても食えなさそうな納豆が平気だったり、今のように科学的に分析のできなかった昔の人々はきっと飢餓か何かに直面して、しかたなく片っ端から食ってみたに違いない。そしてかなりの数の犠牲者も出たことだろう。


豚汁に使った残りは金平風に炒めました。行平がふさがっているので北京鍋で。


効く成分はどれだ?

 風邪という病気ほど実態のない病気はない。風邪の症状はあっても多種多様、こじらせると何が起こるかわからない。共通して言えることは本人がだるくてしょうがないといったことだろうか。

 冬になると、どこの薬局の入り口付近にも山と積まれ、いわば平積み特等席に鎮座ましましている。
 市販の風邪薬と言うのはいわば効く成分のチャンポン状態。熱を下げる成分、炎症を鎮める成分など、それぞれ症状を抑える成分が少しずつ入っている。しかしあれとこれとを比べると全然違う成分が入っていたりする。一体どれが効くのだろう?
 一つの症状に対して効く成分はこんなに種類があるものなのだろうか?

 結局、風邪に効く薬はない。症状を抑えている間に治るのを待つといったほうがいいのだろう。

 ちなみに医者でもらう薬と市販の総合感冒薬の成分量を比べると、医者の薬は成分が10倍以上も入っている。そりゃ効くわけだ。


一年で最も静かな夜

 一月一日の夜は一年の中で最も街が静かな夜。

 大晦日の晩には深夜までテレビを見て、そのまま朝まで起きている人あり、初詣に行く人あり、一年で最も多くの人が起きている夜。

 その反動か、一日の夜はうって変わって静かになる。外へ出ても店はほとんど開いていない、前日のオーバーヒートのツケで人々はダウンしている。人々がなすの夢を見ている間、街にはほとんど人がいなくなる。
 たまたま出会った人と親近感を持ちたくなるほど人が歩いていない。


新年の準備

年の瀬になると忙しい最中に、なお忙しさを増す行事、年賀状の準備があります。

写真やグラフィックソフトやプリンターを駆使すれば楽ができるのだろうけども、あいにくそんな便利な機材もソフトも知識も技術もない。
あるのはアナログな事には労を惜しまない根性のみ。

と言うわけで今年もやってしましました。

嫁→


作る→デジカメで撮影→コンビニでプリントアウト→並べてカラーコピー→はがきに糊で貼る


○ナで元気!

 風邪を引いたのに仕事が休めない、死ぬほど疲れたのにやることが多くて満足に睡眠が取れない、そんな忙しい現代人の強い見方、栄養ドリンク剤。

 タウリンだのムイラプアマだの聞きなれない色々な成分が入っているが、効能を見ると大体どれも同じ。「滋養強壮、虚弱体質、肉体疲労、発熱性消耗性疾患、食欲不振、病中病後・栄養障害・妊娠授乳期などの場合の栄養補給」と薬事法の関係で同じような効能ばかり書いてあるが、成分が異なるので実はそれそれ得意不得意があるという。

 運動後に体が疲れた、病気で熱がでて体がだるい、二日酔いで死にそう、精力絶倫を目論むなど、実は細かく目的に合ったドリンク剤があり、暗示効果も大いにあるというので、成分を見ながら賢く選ぶのが吉だとか。


気力のぜんまい、体力の借金。切れた時が恐ろしい。


思い込み

子供の頃、田舎町のある交差点で信号待ちをしていた。
そして田舎の交差点にはなぜかよくおまわりさんが立っていた。

 ある車が一台、信号が黄色から赤に変わってから猛烈な勢いで右折をしてきた。
しかし運悪く、そこにはちょうどおまわりさんが立っていたところ。
 おまわりさんは笛を吹き、車は止まった。運転席の窓が開き、おまわりさんは近づいた。

 車の運転手はさっと5000円札を取り出すと、おまわりさんに渡し、車は何事もなかったように走り去った

幼少の自分と友人を含む数人の子供たちは、その一部始終を見ていた。

決定的瞬間を見てしまった!

なるほど、ああするのか!


交通違反の罰金はその場で支払うものなのだ!


大人になるまでそう思っていました。


もしかしたら、たまたま出会った友人の警察官に、借りていた金を返した光景の見間違いだったのかもしれない。


体内時計

 高速道路を走っていた時のこと。

 午前中から走り始め、そろそろ昼時になろうという頃、時計を見ると11:30。腹時計のほうが少し進んでいる。
 何となく予感がしたので、少し早いが最寄のサービスエリアに入って昼食をとることにした。

 天気もよかったので店の外の眺めのいいテラス席を陣取り、駐車場と本線を流れる車を眺めながら優雅に少し早い昼飯を堪能していると・・・

 予感は的中、11:55頃から次々と車がサービスエリアになだれ込んできて、あれよあれよと言う間に駐車場は満杯、どの車も目的はただ一つ、瞬く間に食堂は超満員になってしまった。
 それまで食堂はガラガラ、席はよりどり放題の状態だったが、昼の12時なった途端である。高速道路を走っているのだから、誰の影響も受けることなく自由な時間に食事休憩が取れるはずであるが・・・。

 朝飯は食わん人もいるというのに、晩飯の時間は各家庭によってまちまちなのに、寝る時間も人それぞれなのに、昼の12時はほとんどの人の昼食タイムになっている。
 ある意味正午(南中時刻)こそ人間の活動のリセットタイムなのかもしれない。


生け捕り

幼少の頃からうちの両親は、よく何かを捕まえてきた。


捕まえてきた!?


 幼かった時分、親のやることに対して疑問に思うはずもなく、河原にずぶ濡れになった仔狐がいたから捕まえてきたといっても、その行動に対してとくに不思議に思うことはなかった。
 そういえば昔飼っていたシマリスは、とある本屋の中に迷い込んで店中パニックになっているところをたまたま通りかかった母親が素手で捕まえてきたものだった。(のちにさんざんビラを貼ったりして元の飼い主を探したが現れず、結局うちで飼うことになった。)

 そんな中、両親がアオサギを捕まえたという。畑の近くの用水路の所にいたらしい。そこならアオサギがいてもおかしくないシュチエーションなのだが・・・。気になるのは、一体なぜ捕まえたのか、その理由である。

「だっていたんだもん!」

オイオイ!野生動物の許可のない捕獲はヤバイんじゃあないのか?

そこにいたから捕まえた・・・そんな判りやすい理由があるだろうか!?
いったいどうやって捕まえたのか?例によって素手で捕まえたとのこと。ど〜やって?? 

 捕獲の基本は素手である。道具や罠は使わない。逆に、捕まえるために準備をして狙って捕まえるのではなく、たまたまそこにいたから捕まえるというのが原則らしい。そして捕まえるのには弱らせたり傷つけたりしてはならない。
 捕まえたらしばらく観察した後、元の場所で放たれる。(飼いきれないからともいう)

 結局そのアオサギは数日間手厚く飼育され、再び野に放たれたらしい。家の中で逃げも暴れもせず悠然と、手から与えられた魚をパクンパクンに喰っていたそうだ。

怪我でもしてたんかな・・・?


燃焼効率

 若い頃は運動をやっていたので、それはそれは大量の飯を食った。

 かつて食欲旺盛な肉食だったのが、運動もしなくなり、歳を重ねるにしたがって肉より魚のほうに興味が沸いてきた。湯豆腐や水炊きなど、血気盛んな頃はそんな物はおかずにならないとすら思っていたが、最近美味くてしょうがない。幼少の頃には苦手だった酢の物なども欲するようになった。

 成長期に比べると確実に代謝の量も減ってくるので、そんなに多くのカロリーを必要としない体になってきたのだろう。栄養学的に「血や肉になるもの」「熱や力になるもの」は適度に抑えて「体の調子を整えるもの」を優先的に摂取する必要があるのかもしれない。しかもわざわざ気を使って食べるというよりも、ちゃんとそのように体が欲してくるのだからよくできている。

 しかし気をつけなければいけないのが空腹の記憶。体はそんなに養分を欲しなくなってきても頭がついていかない。ついつい若い頃と同じペースで食い続け、そんな生活を続けると確実に太る
 スポーツ選手などは、引退した後の食事制限が大変なんだろうなと思う。

 それにしても人間の体というのは他の動物に比べて燃焼効率が悪い。でかい図体と湧き出でる悪知恵の賜物か、目一杯養分を摂取してもせいぜい8時間から10時間程度しか持たない。しかも余分な栄養はせっせと貯蓄に回すしくみの体は、満足に食にありつけなかった野生の時代の名残なのかもしれない。


痛かった・・・。


 「小鳥を逆さまにすると、普段起こりえない状況にパニックを起こし、動けなくなる」
・・・こんなことが書かれている文を見た記憶がある。
 
読んだのはもうかなり昔のこと、どこかの本に書いてあったことではないかと思われるが、記憶が定かではない。
ただ、嫁も同じと思われる内容の記事を読んだ記憶があるという。



真意はいかほどか?

なにはともあれ、

早速実験してみましょう!

 
ギャーーーッ!!
ギャーーーッ!!


ギャーーーーーッ!!

指を噛まれまくりました。

パニックになって固まるどころか、相当正気なようです。

なお、記憶が曖昧なので特定の鳥のことなのか、実験方法が不適切なのかは定かではありません。
インコは自ら平気で逆さになったりするからなあ・・・。


表舞台裏舞台

 世間ではフィギアスケートが話題になっている。
 記録を出したり戦いをするスポーツ選手は、本番に向けて日々精進していてここぞという時にその実力を発揮できるかにかかっている。

 音楽の本番もまたしかり、練習でいくら上手でも本番で失敗すればそれも実力のうち。本番に向けてコンディションを整えることも大事な練習の一つ。まさに本番での一発勝負の世界。絵画や彫刻などの芸術作品は発表までに時間をかけて製作することができるが、本番一発勝負の音楽の世界でも事前に練習をしておくことは可能だ。
 華やかな活躍舞台の裏には、日ごろの地道な努力があってこそ成り立つものがある。観客に目に触れるのはほんの一部分だけであり、大多数の時間はそのための下積みとして費やされていることを忘れてはならない。


 学校の先生もまたしかり。生徒の立場から見ると、授業や部活動をしている姿が最も印象的だが、授業の為に事前に準備をしたり、テストや指導計画書を作成したり、課題の採点をしたり成績の会議をしたりと、実際には授業以外の時間が圧倒的に多い。まるで電車のようなもとも言える。
 電車は乗客から見るとシートや内装など、人が乗る部分が重要な所だが、それは電車全体から見るとほんの一部分に過ぎない。実際に走るのに重要な部分は始業前と放課後にあたる床下と天井裏。

 自動車も乗る人から見れば外の色艶や内装を気にするが、整備するメカニックから見れば外装の見た目や室内よりもエンジンルームや足回りが重要なのでしょう。


濃厚な味

 今でこそ、その辺のスーパーでもナチュラルチーズはごく普通に売られているが、そのまた昔はまろやかな味に加工されたプロセスチーズが主流だった。本格的なナチュラルチーズは匂いも強くクセがあるものが多いが、逆にクセの強い食べ物にひとたび染まると、普通レベルでは物足りなくなってくる。

 長年国民に愛され続けているこのスナック菓子、カレー味と並んで物心付いた頃から存在していた。そして今なお現役で売られ続け、幼少の頃から残る数少ないお菓子の一つとして不動の人気を誇っている。
 しかし、そんな無敵を誇るこのお菓子に、知りうる限り一度だけ大きな事件があった。お菓子の味と言うのは時代と共に少しずつ変化していると思うが、あるときパッケージに不吉な文字が書かれていた。

 そこには「まろやかになりました」のようなことが書かれていた。案の定、それまでのパンチの効いた味ではなく、実に物足りない味になってしまっていた。

 これはショックだった。袋を開けると漂う強烈なチーズ臭さが魅力だったのに、これではあまり食指が動かない。残念ながら自分の中で、もうこのお菓子は終りだと思った。

 ほどなくして「濃厚チーズ味」と書かれた新パッケージが売り出されたことから、きっと同じように考えた人が多かったのだろう。味もパワーアップしてリニューアルしていた。


 最近、心なしか匂いも味もまろやかになったような気がするが、人知れずマイナーチェンジを繰り返しているようだ。原料のチーズの高騰と大いに関係があるのかもしれない。


気になる行方

 ここの所、たびたび食品業界の産地や賞味期限の偽装が新聞ニュースをにぎわせている。食に関して重大な関心があるしぶーのは、そんなニュースがあるたびに暗い気持ちになってしまう。

 返品や回収になった膨大な量の食品はどこへ行ってしまうのだろう?決して社員だけで食いきれる量ではあるまい。結局は闇に葬られることになってしまうのだろう。
 確かに管理のずさんさや偽装は悪い事ではあると思うが、何の罪もない食品が廃棄されるのは残念でしょうがない。

 食っても健康に害がないのなら、しっかり再利用するか、街行く人に大盤振る舞いしてくれるとうれしいのだが・・・。


色眼鏡

しぶーの家では夏と冬の照明を変えている。

天井にある照明が電球4灯式のものなのだが、2灯あれば充分室内が明るくなるので省エネの為普段は2灯しか点灯しない。
夏は涼しげに電球型蛍光灯の白色光、冬は温かみのある電球にしている。要は玉を付け替えるだけ。

 
夏仕様                   冬仕様

 最近だいぶ寒くなったのでようやく冬仕様の電球に切り替えた。蛍光灯の白色に比べて電球は思いのほか黄色く、室内は一変して黄昏の世界。今まで白かった物が黄色く見える。見るものすべてが黄色く見え、まるでサングラスをかけているような感覚になった。

 しかし人間の目というか脳は優秀なもので、しばらくして慣れてくると電球に照らされて黄色く見える白も自動的に脳内補正が働き、普通に違和感なく白く見えてくる。馴れとはすごいものだ。


ようやく暖房を出しました。さすが「屋内焚き火マシーン」は暖かい。


道路案内標識

遠方の知らない土地に車で出向く時、地図や案内標識だけが頼りになります(カーナビ搭載していません)。
ただ、勝手の判らぬ他地方の人間にとって、時としてその案内が非常にわかりづらくて困ることがある。

 信号に表示されている交差点名、走行中に読むのは至難の業。前にトラックがいて見通しが悪かった時など、確認できた時には右折レーンに入れなかったりします。人から言葉(音声)で案内された場合、交差点の地名が難読漢字だったりすると、気づかずにうっかり通り過ぎてしまうこともある。細かいローマ字まで読む余裕がない。
 道路案内表示の通称青看板、まだ目的地から遠い所なら、その目的地に向かって案内表示が出ているが、目的の市内に突入した途端、案内が外に向かって書かれる。目的地に近いほどよく迷う。

過去に訪れた場所だからといって油断はできない。久々に行く場合は注意が必要。

新しい道ができている。たしか三つ目の信号を左折・・・信号が増えとる!
コンビニのある角を曲がって・・・コンビニが消え失せている!
重要な目印であるはずの線路を渡って、線路に沿って・・・?って肝心な線路がない!廃線かよ!
おかしい、まだ着かない・・・合併して地名が変わったのかぁぁ!


早いのか

 音楽業界での挨拶は、決まって「おはようございます」といいます。
昼に会っても夜に会っても「おはようございます」。
芸能界などの特定の業種の人々の間に浸透した挨拶だとか。


 「おはようございます」とは、言葉の意味として本来は「早いですね」という意味。人同士が出会って「よお、早ええなあ!」ということですね。
 「こんにちは」、「こんばんは」は「昼でんがな」「夜でっせ」という意味になります。そんなこと言わなくてもわかります。

 そもそも挨拶というのは知った人同士、敵ではない人同士が出会って、親近感を表す為に、何か会話をせにゃいかん、ということで「今日はいいお天気ですねぇ〜」とか「今晩は冷えますなぁ〜」とか、無難な季節ネタを振るためにできた言葉が略されたものなのでしょうか・・・。

 いつ会っても「おはようございます」は、不規則な生活の業界人同士、会った時から仕事始め、いかなる時間でも失礼がないから便利だ。

 確かに「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」だと、昼近くや夕方にどっちだか迷うこともある。


塩が好き


べろーん

最近のお菓子のキーワードはどうやら「塩」
コンビニのお菓子売り場でもやたら「塩キャラメル」という文字が目立つ。

 スイカに塩を振ったり、しるこに少量の塩を混ぜると甘味が増すということは古来から知られていることであり、現に今までのお菓子にも結構な量の塩が使われてきたはずであるが、塩自体が売りになると言うのもまた面白い現象かもしれない。

 確かに、有名なチョコレートの菓子ス○ッカーズのように、今まですごい甘いと感じていたが、冷静に味わうと甘味よりも塩味が強いものもある。

 昔、親戚の子供がスプ○イトを一口飲んで「しょっぱい」と言ったのを思い出してしまった・・・。


手作り

 民芸品などで「手作りの味」と銘打って売られているものがある。
 そのほとんどの物が手作業で削られた証拠に、多少形がいびつであったり刃物の跡が残る仕上げであったりします。

 無機質な機械でなく、人が作ったという温かみがあって大変結構なことなのだが、優秀な職人が手作業で作った場合、仕上げは機械よりも正確なはずではないのか?
 とは言えそれは民芸品だから、地元の人々の「存在感」が味として生きていると考えれば多少のいびつさは許せてしまう。

 逆に精度が要求される製品の加工や仕上げに関しては、日本の技術は世界トップレベルではないかと思う。人が手作業で作るということは、それだけ時間やコストがかかるということになるのだが、その分信頼できる優秀な製品ともいえる。安い海外の労働力に頼るより、国内の職人の技術というものをもっと大切にしてはどうかと思う。

 職人の技術は財産、安売りしてはならないし、買い叩いてもいけないものではないだろうか。


オセロ

※オセロは元ツクダオリジナル(現株式会社メガハウス)の登録商標です。

 オセロは誰でもできてルールは簡単、けれども奥が深いゲーム。
オセロを通してコミュニケーションの輪が広まります。

本当か?

 オセロをやっていると、「自分は強い、今まで負けたことがない」と豪語して挑んでくる人が意外と多いことだ。

 今でこそ、そこそこ強いゲーム機がたくさんあるので、実際に強い人と対戦するとどのようなことになるか大体予測できるが、そんな物があまり普及していなかった昔、せいぜい親類一同オセロ大会で負けたことがないという程度で挑んでくる場合が多い。
 そしてほとんどが「辺は必ず取る」とか「角の隣には打たない」といういような自己流で珍妙なポリシーを持っているだけの場合がほとんどである。確かに何も知らない初心者相手ならそれでも充分勝てるとは思うのだが・・・。

 オセロの戦略は徐々に相手を追い込んで手詰まりにしてゆくゲーム、お互いの実力差がなければ激しい攻防が見られるが、実力差があると中盤以降は悲惨なことになる。日本オセロ連盟の会員だった頃、定例会ではいつもコテンパンにやられていました。)

 初心者を相手にすると、こちらが考えている時間が長いとイライラしだす、そして徐々に手詰まりになってゆくと見る見る機嫌が悪くなり、やがて戦意を喪失して投げやりな態度を取る。かといって手を抜いてわざと悪手を打つのも相手に失礼だしフェアではない。 

 かくしてオセロとは、中途半端に打てる人ほど苦労するゲームである。


携帯電話のゲームもオセロ(リバーシ)。暇つぶしには持ってこい。


その前に痩せれ?

 一般人よりもサイズの大きい人は、着る物に苦労している。
 標準のサイズの服なら色々なデザインの服が数多くあって、量産の賜物か、値段も高くない。

 ところが大きなサイズとなると布地の量も増え、生産量も少ないのかそこらのセールには置かれていないことのほうが多い。種類もデザインも限られていて、大きいサイズの服を探すので精一杯、およそ流行やスタイリッシュとはかけ離れた選択肢しか残っていないのが現状。

 そんなことはすでにあきらめているのだが、せめてぴったりの動きやすい服を探すというだけでも苦労する。

 世の中の服のデザインは標準のサイズが基準で、大きなサイズはそのまま大きくしましたというような服もある。しかしそれでは実際に着て動いてみると、どこか突っ張る所があって動きづらかったりすることもあって残念だ。

 ところが先日、○ニクロで入手したずぼん(今風にはパンツ↑?)は、細身でありながら実によくできていた。若干伸びる素材だったということもあるが、はいてみて「大丈夫か?」と思えるようなぴったり感のわりに、実際に動いてみてどこも突っ張るところがなく実に動きやすかった。

やるなあ○ニクロ・・・デブのことよく判ってんじゃねえか!


容姿端麗?

 うちのオカメインコは滅多に水浴びをしない。
 よそのWebサイトを見ると「毎日水浴びする」というインコがいるというのに、コイツはふた月に一度程度、気が向いたら浴びに来る。普段はお誘いをかけても逃げていってしまう。

 おかげで普段は羽根がヨレヨレ、背中から一本ぴろ毛が出ていても直そうともしない。

 小鳥と言うのは己の容姿を随分気にするものではないのか?あの鳩や鶏ですら羽根の乱れを見つけると即座に直すというのに。
 ところがどっこいコイツは毛づくろいをしても尾羽根の先端部分まで届かずに折っちまうし、主翼の下は逆毛がボサボサだし、背中の上に抜けた羽根が乗っていても気にもしない。毛づくろいは羽根の乱れを整えると言うより痒いからしているだけではないだろうか?

 
水浴び後のカイカイカイカイ。

 ペットショップなどでよそのオカメを見ても、尻尾がボサボサのまま平気な鳥も多い。どうもこの種は羽づくろいが苦手なのかとさえ思えてくる。
 惚れた相手がふきん雑巾だからそれでいいのか・・・?


おまえ邪魔だよ


自己防衛

 風邪ほどつらい病気はない。
 いや、世の中にはもっと深刻な病気は多くあるのだが、日常これほどまで多くの人がかかり、なおかつひいた本人のつらさをよそに、他人に同情されない病気も珍しい。

 しぶーの家には先祖伝来?のキビシーイ掟があって、「風邪はひいた本人の責任である」と言われて育った。
 つまり、日常気をつけていれば風邪などひくこともなく、そして予防が可能だという理由からだ。
 すなわち風邪をひくと、風邪のつらい症状に加えて本人の不養生と自己防衛力の弱さを怒られることになる。まさに踏んだり蹴ったりだ・・・。

 風邪は、「外から帰ったら手洗いとうがいをする」、「電車内などの人ごみの中では口から息を吸わない」など、日常の中の簡単なことで防衛するすることが可能なのだ。決してうつした人を恨んではいけない。あくまでも自己責任なのである。
 

 こうした心がけのおかげか、生まれてこの方、滅多に風邪をひいたことはない。





 大嘘です。

 風邪、しょっちゅうひきます。ああ情けない・・・。


ホールの風景

 仕事であちこちのホールを回っていると、その景色を覚えてしまう。

 忙しい時期になると連日違うホールへ出向いて演奏することもあるが、本番によっては朝ホール入りして午前中にゲネプロ(通しリハーサル)、そのまま本番、終わると即撤収といった仕事も多い。
 そんな仕事を数多く繰り返していると、自分がどこのホールに行ったかすらよく覚えていなかったりすることもある。覚えているのは景色だけだったりします。しかもそれはステージの上手側から客席を見た風景。演奏中の緊張感からか、この風景は克明に脳裏に焼きついています。


こんな風景

 場所も名前の記憶も定かでないホールでも、かつて演奏したことがあるホールだと、ステージに座ると「どこかで見た風景」の記憶がよみがえる。まるでデジャビューのようである。



とあるホールにて・・・


しません。


本当の数字は怖くて書けまい

 これは嫁から聞いた世にも奇妙な話である・・・。

 世間では「A4の封筒」と言うと、A4サイズがすっぽり入る封筒のことを指します。つまりA4サイズの書類が余裕で入る大きさに出来ているということだ。


 60cm。この数字は世の中の女性の理想的体型というか、この数字を切ることが目指すべきウエストサイズとされているらしく、身長やその他の部分の体型を全く無視して数字だけが神格化された結果、世の中の女性のウエストは永遠に60cmなのだという都市伝説すらある。(本当にあるのか?)

 そして嫁のウエストサイズは実寸60cmという。世間ではかなり細いほうだと思うが、ウエストだけでなく全体も小柄なのだから仕方がない。

 不思議なことに、ウエスト60cmと表示された服は、実際に着てみるとことごとく余るというのだ。そのばらつきの差も大きく、服によっては両腕がすっぽり隙間に入るほど大きいのだとか。ちょうどのサイズを探そうと思うと表示で55〜58cmくらいになってしまうらしい。


 そんな数字はしぶーのにとって遠い昔、幼少の頃の寸法なのでちっとも実感はなく、知ったこっちゃないです。


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