管理人の独り言5

ここは管理人しぶーのが日ごろ感じたことや気づいたことを徒然と書き綴るページです。

非常食

夕飯の米のセットを忘れてしまったので、おかずはあるのにごはんがない。
そんなわけで備蓄品の非常食(賞味期限も切れているので、この際入れ替えの為)を頂くことになった。
パッケージの中に乾燥した米が入っていて熱湯を注いで20分、イザというとき水なら60分で食べられる。
結構美味。

折角なので、電気がないことを想定してエマージェンシーな晩飯にしてみました。

緊急時に刺身を食うか?というツッコミはなしとして・・・。

光源は天井の電気の紐にぶら下げた新富士バーナーのGzライト(球は500CSに替えてあります)。


ストロボ撮影するとご覧の有様。

ランタンを使おうかとも思ったが、食卓の上を照らすだけならこの5mm玉(球?)1灯で何不自由なく飯が食える。
目が慣れてくれば室内を見渡すことも可能、字を読んだりしなければある程度普通に日常生活が営めそうです。
なにより単四電池一本で一晩中点灯可能、緊急時の貴重な電池の節約にもなります。
家庭用の照明のほとんどが天井から設置されていることからして、やはり高い所から照らすのが一番効率がよさそうです。


教育の難しさ

 公共の場所で、不届きな行為を働くガキどもを注意すると、その親が注意した人に対して食ってかかる時代になった。
幼少の頃、他人様に怒られたことが親にバレようものなら、さらに親から怒られるので黙っていたものだが・・・。

子供達には親だけでなく、周りの大人も含めて善悪というものをしっかり教えてやれることが理想的な社会。
「あのおじちゃん(失礼な!)に怒られるからやめなさい」と、悪者にされることもあるかも知れないが、それはそれで大事な教育の一端を握っているのだから喜んで悪者になりましょうぞ。



先日こんな光景に遭遇した。

 赤信号で信号待ちをしている時、数人の大人が赤信号を無視して横断歩道を渡りだした。
そこに居合わせた親子連れの子供が大きな声でしきりに母親に訴えている。
「あの人信号無視してるよ!」

きっとその子供は赤信号では渡ってはいけないときちんと親からしつけられているのだろう。
だからこそ違反する人は注意をされるべきであり、罰を受けるべきなのである。
目の前の大人の不正行為を訴えることは、子供にとって正当行為なのだ。

 世の中色々な人がいて、大人の事情がある。急いでいる人もいれば、自分だけは大丈夫だろうと言う人、赤信号なんぞクソくらえじゃ知るかボケ!という人。物事の善悪を示さねばならない状況だが、そうもいかない状況がある。むやみに他人を非難しようものなら、どんなトラブルに巻き込まれるかわかったものではない。

結局その親をはじめとして、周りの大人は誰一人注意することなく、その場に気まずい空気が流れた。

これが現状なのだ。


笹の葉さらさら

毎年この時期になると思う。
七夕を、新暦の7月7日に行うのは無理がある。

旧暦や和暦や諸説様々であるが、北日本を除く太平洋岸においてこの時期は梅雨真っ只中、晴れることのほうが少ない。
記憶にある中でも雨が降らなかった日は数えるほどしかない。
たまに晴れても蒸し暑い湿気の中、星も天の川も見ええせん(見えない)。

織女星と牽牛星は夫婦になったが、めっきり仕事をしなくなり、天の川の対岸に引き離されてしまった。
仕事あたしとどっちが大切なの?
無論、仕事のようです。

伝説も様々だが、確か昔聞いた話があっていれば、一滴でも雨が振ると天の川が増水して会えないのだとか。
あの二人、ここ何年も会ってないぞ。


弟か妹、欲しくない?


一人っ子が突然親からこのような質問を受けたとき、決まってすでにその親は御懐妊の状態であることが多い。

要らんといってもじゃあやめますかとなるはずもなく、

子供の意見など100パーセント聞く気ないくせに。



努力すればできるのに・・・

「この子は、やれば出来るのに・・・」教育の現場ではよく聞く言葉である。
判りやすく言うと、勉強なり努力なりをすればよい成績になれたり結果が残せると言っているのだが、現状は「出来ていません」ということになる。

努力をすれば何らかの結果が出るのは当たり前のことで、世の中には色々なタイプの人がいる。

A・・・・・・努力して、成果を成し遂げた人。
B・・・・・努力せずに、成果を成し遂げた人。
C・・・努力して、成果を成し遂げなかった人。
D・・・努力せずに、成果を成し遂げなかった人。

 この中で、成果を成し遂げた人は何も言われない。さらに努力しているにも関わらずうまくいかない人も、見ていて気の毒で何も言われない。エールを送られることもある。つまり、とやかく言われるのは一番最後の努力をしない人。

 評価する人間にとって大事なのは、ABのように成果を成し遂げるかどうかであって、CDのように努力しようがしまいが成果を成し遂げられない人がいる。

「やれば出来るのに・・・」というのは、正しくは「成果を成し遂げておりません、何故なら努力すらしていないから。」という評価になる。

B・・・該当せず   D・・・現状    AorC・・・?
つまりやってみなければ結果は判らないのだ。

しかし、努力しない人は誰に何と言われようとも、「努力」の部分が嫌いなのだから仕方がない。


ト○とジェ○ー

世代がばれてしまうネタだが、当時子供たちの間で絶大な人気を誇ったアメリカのアニメーション。
猫とネズミが繰り広げる無声のドタバタ劇は、アメリカ的な動きの誇張が他の日本のアニメにはなく新鮮だった。

同じものが何度も放映されて、あらすじも結末もわかっていても見た。

3編のうちの真ん中(猫とネズミが出ないヤツ)が意外と面白い。
効果音がトーキーを思わせる、アコースティックな楽器音だった(このアニメでクラシック音楽に興味を持った)。
そういえば放送30分枠だったが時間が余った分は予告編があった。
予告編がいつも途中で終わるのが悲しかった。
たまに英語(筆記体)が出てくるのが妙にかっこよかった。
リニューアルされたものは旧作と比べ物にならないほど面白くなかった
いつも最後は猫が負けるので悔しかった。
エンディングの「ときにはシャクだし泣きたいよ」の部分がどうしても歌えなかった(まさか頭拍に休符が入っているとは思いますまい)。
(発音も「ンときにゃ」だったし


本番直前にお手入れ

本番前日の合わせ練習で気がついたのだが、いつも使っているピックが少しゆるくなっている。
べっ甲なので使ううちに湿気や体温で微妙に変形してくるのだろう。
熱を加えて修正も出来るのだが、本番直前には行いたくない(実は以前、お気に入りのピックを割ってしまったことがある)。


一応保険としてセコンド(ナンバー2)を微調整して本番中の予備として持っておこう・・・。


このナンバー2、先端の形が微妙に違ってナンバー1に比べ音色がよろしくない。
予備はたくさんあるのだが、微妙に厚さや先端の形が違うので一つずつ音色が異なる。
べっ甲は爪と同じくらいの硬度なので、削って磨けば微調整できる。

そこで理想的な爪の先端の形はどんなものだろう・・・


「爪のことはギタリストに聞け。」


おお、これはこれは矢橋先生、ちょうどいいところに!

かくして微調整された新しいピックを試してみます。
調子がよければデビュー戦の後、晴れて本番用の仲間入りです。

だけどこのピック、ハワイでは絶対使えないだろうな・・・。
ハワイでは、ウミガメ(ホヌ)は守り神として手厚く保護されています。


触らぬ○○に・・・

近所の駅前の路上で、制服を着た高校生が座り込み、タバコを吸っていた。
彼らが未成年と言うことと路上禁煙エリア内ということで、当然注意補導されるべき対象なのだが、今日日下手に注意しようものなら刺されかねない世の中、周りの大人は見て見ぬフリの状態だった。


昔からタバコを吸うやからはいた。
「悪い事をしているんだぞ」と言うアピールだったが、大人に見つかると慌てて隠していたものだった。
そして運悪く見回りの体育教師なんぞに見つかると顔の形が変わるくらいゴンゴンに殴られていた。
悪い事をした代償として当然のことと、だれも文句を言うヤツはいなかった。

今でももちろん本人達はその行為が反社会的なことくらいは判っているはず。
しかし「誰にも迷惑かけていないからいいじゃねえか!」といえば、大人たちはそれ以上注意しないということもわかっている。
赤の他人にそれ以上注意する気もないし、本人達がどうなろうと知ったことではない。
今や未成年が法を破って飲酒や喫煙するくらいでは驚く大人はいないし、そのことが社会に対して悪事のアピールにすらなっていない。

反社会行動がインフレ化してきているような気がしてならない。


驚きの出来事

 先日夜中に、猿投の山道に止めた車の中でピノを食いながら(ポット持参で)ドリップしたてのレギュラーコーヒー(ブラック)を飲んでくつろいでいると、外の道路に何やら動物が横切る影が・・・。
 夜の道路を野良猫や野良犬が横切ることは珍しくなく、犬猫ならごく普通の光景。しかしよくよく見ると何かが違う。しばらく車の周りをうろうろしていたその生き物は、犬のような風貌だが歩き方が明らかに犬ではない。少し山奥ならば、イタチや狸や鹿に遭遇することもたまにあるが、色は灰色、とんがった口、立った大きな耳、細い体、これはキツネでは!?


調べてみると、ホンドギツネという種類のキツネが生息しているらしい。
見かけは痩せてしょぼくれた犬のようで、尻尾もフサフサではなかったが、顔つきからしてあれは明らかにキツネと思われた。

猿投の山中といえども、そんなに集落からは離れていない。
実はすぐそばには民家もあり、そんなに人里はなれた山奥と言う場所でもなかった。
野生のキツネが民家の近くにいるところを初めて見た。
実に貴重な体験だった。



>>山道に止めた車の中でピノを食いながら(ポット持参で)ドリップしたてのレギュラーコーヒー(ブラック)を飲んでくつろいでいる
この行為のほうがよっぽど珍しいと思うのは気のせいか・・・。


使いよう

演奏に関わる重要な4人の部下達がいる。

1・人差し指、2・中指、3・薬指、4・小指。
この4人はそれぞれ特色があり、その場面に応じて使い分けてやる必要がある。


1・人差指。

 所属部署柄、指を立てて弦を押さえる場面が多い。そのため弦と爪が接触することもあり、着地角度の指示を誤るといい仕事が出来ないので注意。ウクレレでは4弦セーハするという大事な任務がある。最も押さえにくい上ナット近くのフレットを担当することが多く、実は目立たないだけで力は強い。

2・中指。

 背が高く、一番頼りになる。力も強くビブラートもかけやすく、チョーキングやハンマリング奏法など力強い奏法も任せられる。D7の時などセーハもこなすツワモノ。あまりに頼りになるので一人で2本弦同時に押さえる羽目になることも多く、反り返りながらもがんばっています。

3・薬指。

 日常滅多に使わないコイツは要注意。頼りにしているとイザ本番で裏切ることがあるのでやはり重要な任務は任せられねぇ。とくに4-3と下ってくる時など、思いのほか力が弱い。かと思えば1-3と登ってゆく時や、指を伸ばして押さえる必要がある4弦を弾くような時には力を発揮する。コントラバスのハイポジションでは悲鳴を上げるほど酷使するのでしっかりしてもらわないと困る

4・小指。

 細身でちっこい割にはしっかりと仕事をこなす。ウクレレのソロを弾く時には最も重要な指かもしれない。いつも派手にこき使われている割には不平不満も言わず、的確に役割をこなす頼れるヤツだ。速く動かすには苦手だが、ローポジションからハイポジションまでの遠方への出張ではコイツが一番いい仕事をする。コントラバスで長い交響曲などこの人を酷使しすぎると腕まで痛くなる。


そして決して表には出てこないが、これらの部下達をすべての場面で支える親指の存在にも感謝しなければならない。

 ウクレレのようなフレット幅が狭い楽器では、どの指を使おうがある程度届いてしまう。かといってどの指を使っても一緒というわけでもない。やはりフレーズごとにここはどいつに任そうかということを考えてポジション取りをしないと理想的な演奏は難しい。


並ばない人々

遠い国の客には、笑われるけれど・・・
鯱の国の人々は電車の乗車マナーがすこぶるよろしくない。

 電車が到着する前に、一応ホームに並んではいるものの、ドアが開くとその列はまるで意味がなかったかのように崩れ去り、前の方に並んでいようが後ろの方に並んでいようが関係なく、降車が終わったドアから我先に乗り込む。
 中には最初から列にも並ばず、イザ乗り込む段階になって素早く横から近づいて最初に乗ってしまう人もいる。他府県の人が見たら信じられないような光景である。

こんな悪行が許されるのだろうか?

 現実その行為は許されている。
 まあ、世の中には色々な人がいて、急ぐ人もあり、どうしても座らなければならない事情がある人もいよう。自分はそんなに急ぐわけでもなし、立っていようが乗れればいいのだから、ましてや自分がそのような境遇になったときにはそのようにさせてもらえばいいのだから、数人追い越されたところで腹を立てるだけ損である。
 恐らく他の人々も同じようなことを考えているのではないだろうか?まあ、細かいことでイザコザが起きるのも面倒だし、見て見ぬフリをしよう・・・こんなことを考えて結果として許されているのだ。
 そして今や日常の光景となって、誰も気にもしない。


しかしこんな話を聞いた。

「他の(きちんと並んでいて結果的に座れなかった)人はトロいとか要領が悪い、自分は要領がいい」

と豪語する人がいるというのだ。


これは許せん!


いい楽器とは

安くていい楽器があったらどんなにいいことだろう?
これは楽器に関わるすべての人々、プロからアマチュアまで共通する夢ではないだろうか。


「お金がなくていい楽器が買えないのです。」

 残念ながらこのような言い訳は通用しない世界である。聴衆はミュージシャンがステージ上でどんな楽器を弾いているのかは知ったことではない。ただ、最終的にとなって耳に届き、その人の音、その人の音楽として評価され、いかによくない楽器であれ、調子の悪い楽器であれ、その楽器を使っている以上、演奏者本人が納得しているということでそれなりの評価を受けてしまう世界なのである。

 しかし楽器は演奏する人の技術で音色もずいぶん変わるもの。逆に高価な楽器でなくとも、素晴らしい音色で演奏すればそれもアリなのだ。


 いい楽器とは、いいがすること、演奏しやすいこと。この二つに限る。音がよくなければ始まらない、そして演奏者の思いのままにコントロールでき、楽に演奏できること。そしてあえて付け加えるならば壊れないこと、いい状態が続くこと、つまり楽器の健康状態がいいこと。

得てしてこんな楽器には、いい値段がついていたりするんですよ・・・orz



修理中のマーチン5K(本物)。中西ウクレレ工房にて。
推定100万円。


子供だねぇ・・・

いい年こいた大人が、子供向きの遊具などに心ときめく様子に対して、心ときめかざる人はこう言う。

確かに、子供が我を忘れて何かに熱中する姿は無邪気でほほえましい。
しかしその姿は子供独特の姿ではなく、本来の大人がやっている姿の縮小版に過ぎない。
それをしないことが大人であり、やっている人が子供(じみている)と言うのもおかしな話だ。

何故ならば「子供だねぇ・・・」と思える行為をやっている人は大人ですから、それは大人がする行為なのでは?
社会的責任感とか、善悪の判断とか、そういうもんじゃあないのでは?


所詮子供は半人前、と低く見ている感覚がありありと伝わってくる。
子供から見れば、大人のほうが平気で悪いこともするのに・・・。


煮ても焼いても

 学生時代、友人と釣りに行ったことがある。
 夏休みの天気のいい日、山にでも出かけて一日のんびり釣りでも楽しんだあと、獲物は川原で火を起こし焼いて食ってしまおう、というプチアウトドア気分を楽しむのが趣旨だった。
 とは言え、釣りの経験はほとんど皆無。安物の釣具セットのチャチな釣竿で鮎やアマゴといった大物が釣れる訳もなく、もちろんそのつもりもなく、名も知れぬ雑魚でも釣ってささやかに食おうというつもりだった。


 その年は例年にないほど雨が少なく、干上がったダム湖の流入口の小川で糸を流して遊んでいたが、いきなり釣れたのは30cmを越える巨大な魚(自分の腕と比べて肘から指先まであったので間違いない)。
 いきなりの大物の収穫に大喜びしたものの、食うためには捌かなければならない。他は20cmほどの魚が2匹、合計3匹の獲物を食うことになったが・・・。

 よりによって処刑係になってしまったので、サバイバルナイフでなんとかハラワタを抜き、持って行った鉄串に刺して塩焼きになっていただいた。
大自然の中、魚は串に刺したまま皮ごとワイルドにかぶりついた。


不味かった。


 凄く不味かった。身は淡白だが脂のクセが強くてとても食えたものではない。恐ろしいことに、同行した人々の中に誰も知識がなく、その魚が何であるか知る由もなかった。しかしせっかく手に入れた獲物、無駄にすることは出来ず、がんばって全部頂きました。ただしこの日以来、この魚は分類上「食えん魚」に認定されました。
 今となっては間違いない、魚の横にあるあの黒い文様、間違いなくその魚は外来種のアレだったと思う。


イカすぜ園長先生!


近所の幼稚園の前にあった看板。

鳥獣戯画的な味のあるこの絵から、書道に長けた優しそうな園長先生の姿が連想される。


デビュー戦

 楽器を新しくしたり、楽器の一部を調整したりパーツを交換した場合、その後最初の本番をデビュー戦と称して自分の中で特別扱いしている。

 楽器である以上、練習でいかに調子よくても、本番で能力を発揮してもらわないと困る。また本番は当然緊張して演奏するので練習以上に難関が多く、そんな時に力出す楽器に救われる事も多い。楽器はパートナーのような物、絶対的に信頼していなければ安心して本番で演奏が出来ない。

 本当は楽器の問題ではなくのほうの問題なのだろうけども、晴れて本番で能力を発揮して、共に修羅場をかいくぐった楽器を信頼できると判断した時、初めて自分の楽器として認定される。

 本番の演奏は、日ごろ練習やレッスンで弾いているのに比べ、想像以上に過酷な状況にさらされてる(らしい)。本番後、気がつけばついこの前替えたばかりの弦がボロボロになっていたりするので、知らず知らずに相当な力で押さえているのだろう。


美味いのは何故だ?

休日、久々にパ○テルのプリンを買ってきました。
なめらかプリンといえばパス○ル。
(送ってこんかな?)

かつて貧乏学生時代、決して気軽に買えない超高級プリンだっが、人に勧められて初めて食ったときにはあまりの美味さに衝撃が走った。
今までの(勝手な)プリンの常識が覆されるほどの美味であった。

そして、この工場でバイトしていたという人から暴露された衝撃の事実が!

このプリン、実は凄い量の砂糖が使われているらしい。

当然、美味な訳です。

ところで久々に食してみると、何となく以前より甘さが抑えられているような気がするのは、軽い食感を追求する今のご時世柄か。


いるのか?

最近、やたらと携帯電話の迷惑メールが多くなった。

 架空請求ワンクリック詐欺など世間では知れ渡ったと思われる今時、こんなものに引っかかる人がいるのだろうか?
下手な鉄砲数撃てばなんたら、たとえ100人に1人でも引っかかる人がいれば成り立つのか、一向に衰える気配がない。

 特に春先のこの時期、入学や進学で新たに携帯電話を持った新規ユーザーを狙っているのか、一晩に15通や20通くらい来るのでたまったものではない。かといってドメイン指定受信など、受信条件を設定してしまうと肝心の通じて欲しい相手のメールまで弾き返してしまうこともある。

 携帯電話会社もあの手この手で防いでいるというが、実際にはイタチごっこの状態。

 誰も引っかからなければこのような広告は効果がないとして廃れてゆくだろうか。例えば携帯電話会社は責任を持ってユーザーに警告してはどうだろうか。いらないメールは受け取り拒否してお返しできないのか?本文中のURLが無効ならば広告効果がないのでは?送信する側にも課金してはどうか?

 携帯電話の会社によっては受信にすら金がかかる。まるで切手のない郵便を送りつけられるようなものである。夜中だろうが早朝だろうがお構いなしで届く。実際の所、これは被害と考えていいのではないだろうか?

 色々な手を使って防ぐことは可能だとは思うが、防戦一方だけでなく何とかして発信元に一泡吹かせてやりたいと思う人は多いはず。
 詐欺のように人をだます手口というのは巧妙でずる賢いものだが、誰かそんな悪知恵を生かして迷惑メール撃退する方法を考えた人はいませんかねぇ・・・。


カツ丼

近所の豚カツ屋で持ち帰りのカツ丼を買って帰った。
持ち帰りだとひれカツ丼515円、ロースカツ丼620円とリーズナブル。
今日のメシはちょっと横着、店屋物で済ませます。


ひれカツ丼とロースカツ丼。

さて、どちらを食おうか?

  vs  

ひれカツは柔らかくて美味いぞ〜、是非食べなさい。
いいよ、美味しい方を食べなよ。
こっちのロースは脂っこくてくどいのであっしがいただきましょう。
いやいやだんなさん、脂が多い方はコレステロールも多いので私が食べて進ぜましょう。
いやいやそんな、妻にそんな思いをさせるわけにはいかないのだ。
私はだんなの健康を思って言っているのです。

・・・・・。
・・・・・。


「高カロリー=美味」


丼カレー

カレーの好きなしぶーの家では、月に一度くらいのペースでカレー作りを楽しむ。
今宵もまたカレーライス。

上から見ると何の変哲もない皿に盛られたカレーライス。


横から見るとドンブリでございました。


実は二つあるカレー皿の一つを割っちまったので、仕方なくこの丼カレーにしたのだが、やってみるとなかなかよい。
さじを縦にしてゴンゴン地下に掘り進み、丼が深いのでなかなか冷めない。
あまりお行儀のいい光景ではないとは思うが実際に食いやすくて驚いた。

難点は、普段の器と違うので一人前の量の見当がつきにくいこと。
気がつくと大量に食ってしまっています。


この他にもダムカレーとか作って遊んでいます。

ダムカレーといえば、ダムマニアの中では有名なカレーだとか。
「財団法人日本ダム協会」のサイトより「ダム便覧」内で紹介されています。


巨大イカ

 ある時、何気にテレビをつけると奇妙な映画をやっていた。
 外国の映画で、巨大なイカが襲ってくるという恐怖映画らしい。
防波堤を覆い隠すほどの巨大なイカが、倒したと思ったら再び動き出し、足を伸ばして襲い掛かる。
 恐怖に逃げ惑う人々と戦う人々。

 風呂上りのくつろぎのひと時、特に何も考えずにボーっと見ていた記憶がある。映画の製作者には悪いが、正直な所、その映画を見ていてちっとも恐怖を感じなかった


 タコやイカの頭足類をデビルフィッシュ(悪魔の魚)と読んで気味悪がっている民族にとって、巨大なイカがしぶとく襲ってくる状況は、悪夢に出てきそうなほど恐ろしい光景に違いない。しかし、日常ごく普通に食卓に姿を現し、おいしく頂いてしまっている身としては、そんな巨大な獲物は、何とか生け捕りにできないものかと考えてしまう。

あれだけ大暴れするくらいだから、少々大味だがきっと身が締まって美味いに違いない。
一体何人前の料理が作れるのか?早くいただかないと痛んでしまう。あ、冷凍しておけばいいのか。


映画の中では、最後にその巨大イカは盛大に焼き殺されてしまう。


いい匂いするんだろうなぁ〜。

実際に生息する巨大イカ、「ダイオウイカ」は食用には適さないらしい。


コンビニの箸

気がつくと、ある大手コンビニでもらえる割箸が木から竹製に変わっていた。

 竹の割箸っちゃあ、そこいらの定食屋ではなく、高級料亭で出てくるようなもので、木に比べてずいぶん高いのではないのか?
根っからの貧乏性からか、そんな高級な物を惜しげもなく使い捨てにするというのはかなり勇気がいる。


 割箸に使う木材は、製材した時に出る端切れの部分を有効利用したものだというが、日々消費される量も半端ではないので積もり積もれば膨大な量になってしまうのだとか。実際の所は製造コストはともかくとして、竹のほうが木に比べて成長が早いので森林保護に役立つのだそうだ。

 現実的にそれが本当にどのくらい森林保護に役立つかは定かではないにしろ、そのように習慣を打破して率先することに価値があると思う。


ラッキーな日

 いつもよく行く定食屋、毎週ある曜日は定食につく味噌汁が豚汁と決まっている。

 豚汁に入っている豚肉は言ってしまえば出ガラシ、汁全体に脂と味が広がっている分、ほとんど肉の味がしない。
 そんな中ひときわ輝く大好物の具はサトイモ
 これがまたロシアンルーレットの状態。お玉ですくい分けているのであろうお店にとって、すべてのお椀にイモが行き渡ることはコスト的に難しいのもよくわかる。お椀の中にイモが巡ってくることは、とてつもない幸運なのだ。

 一つも入っていないハズレの日も多く、イモが入っているとものすごく得をした気分、その日一日がハッピーになれる。ちなみに今までの最高記録は3つ。


こういうのを世間では幸せというよりおめでたいと言うらしい。


春の音

春になると、町全体がボーっという感じになりません?

暖かな気候の中、遠くの景色も霞み、ふと耳を澄ますと遠くの音がよく聞こえる
遠くを走る電車の音、上空を飛ぶ飛行機の音、どこかの工事現場の音、どこからともなく漂ってくる。

天気のよい春のうららかな昼間、他の季節にはない独特の音に包まれる。


 夜になると、遠くの音がよく聞こえることがあります。昼間は気にならなかった遠くの波の音や踏切の音などが、夜になるとやけに近く聞こえてくるという現象。これは地表と上空の気温差によって音が屈折して遠くまで届くというのが原因だというのだが、この現象は、冬の夜によく起こるらしい。

 春の音は、遠くの音が聞こえるというよりも、むしろ聞こえなくなっているのが原因かも知れない。聞こえるはずの音がかき消され、時折遠くの音がこま切れに聞こえることで印象付けられる。
 春は単純に気温の暖かさだけでなく、独特の空気というか、というか、季節感という物にはそんな感覚的なものが大切なのかもしれない。

 音楽の作品の中でも「春の声」「春の歌」「春の祭典」など、春を題材にした曲は数多い。とかく北ヨーロッパは冬の間、太陽が顔を覗かせることが少ない気候ということらしいので、春の到来の喜びも我々以上に大きいと思われます。


白鳥

 サン・サーンスの名曲「動物の謝肉祭」という曲は全14曲からなる組曲だが、多くの引用やパロディを含む親しみやすい曲の集まりである。
 きっと誰しも、どこかで聴いた事がある曲が含まれているとは思うが、中でもとりわけ13曲目の「白鳥」は誰もが知っているチェロの名曲。

 題名の表すまま、水面を優雅に泳ぐ白鳥を思い浮かべる旋律だが、あまりのその優雅さから、他の曲に比べて違和感すら感じるほどである。
 伴奏である2台のピアノの分散和音は水面のさざなみを現しているという説があるが、それではあまりにもよく出来すぎた曲になってしまう。他の曲には、様々な風刺や含みがあって、どこか笑えるポイントがあることから、この白鳥にも含みがあると信じたい。


まちがえた・・・

 水面から上ではツンと澄ました白鳥が、水面下では一生懸命足をばたばたさせている。
 流れるようなチェロの旋律と、休まず動くピアノの足掻き、このコントラストが笑える曲、この説を支持したい。


超能力

超能力が使えたらどんなにいいだろう?

ちなみに超能力というものを調べてみると「予知、透視、サイコメトリー、テレパシー、念力、瞬間移動、念写」という分類になるらしい。

現実の生活の中で使えたら、それはそれは便利になるに違いない。

 例えば高い所にある物を取りたい、手が届かない。椅子に座ったまま念ずれば棚の上のものがこちらにやってくる。こんなことが出来るようになれば、なんてすばらしい能力!
 しかし、脚立を準備して棚の前まで歩いて行って取ってくることも可能で、もしそれよりも労力がかかってしまうと意味がない。特に理由がなければ当然なほうを選ぶ。念じている間にほかのことが出来るのなら時間の短縮という意味で有用だが。


 普通の人に出来ないことが出来ると、それは超能力。背が高い人は手を伸ばせば高い所まで手が届く、背の低い者から見ればこれも超能力だ。
 開けずに封筒の中身が見えるのは、中身が見える封筒に入っているのに等しい。中が見られたくないから封筒というものに入っている。もし透視によって中身がわかってしまうというのなら、透視できない素材でくるまれてしまうことだろう。
 未来を予知することが出来たら、その人にとって未来は未来でなくなってしまう。人生は行く先の決まったレールの上の電車のようなもの、運命のように決まった予定としてただ時間が過ぎるのを見守るしかない。しかも「この先どうなる」と説明しても、人々は都合の悪いことは決して信じようとしない上、何とか努力で都合よく変えようとしてしまう。

 手を使わずに物を破壊する、封を開けずに中身を見る、念じただけでスプーンが曲がる・・・。確かにそんなことが出来れば超能力かもしれないが、なぜかちっともうらやましくない。手を使って破壊すればいいし、封を開ければ中身はわかるし、スプーンを曲げたければペンチでひん曲げればいい。

 下手をすると、超能力など使わないほうがよっぽど楽なのかもしれない。仮にこれらの特殊な能力が備わっていても、冷静に日常の中で本当に役立つ超能力というのはあるのだろうか。というより、この能力をパフォーマンスとして人を驚かす以外に、いかに役立てるのかを考えるほうが難しい。

 一説によると、現在語られている超能力のいくつかは本来人間にもともと備わっていた能力で、何らかのきっかけによって再び目覚めることがあるという説もある。いわゆる「虫の知らせ」や「カン」といった科学では説明できない第六感的な能力がその名残なのかもしれない。
 ただし、本来備わっていた能力というのなら、今やすっかり退化しているようです。

きっとその能力は必要なかったのだろう。


歩道

 幅の広い歩道を歩いていると、後ろからやってきた自転車にベルを鳴らされることがある。しかもよほど急いでいるのか、歩行者が邪魔なのか、鳴らし方からしてかなりの不機嫌さがうかがえる。
 中には人ごみを追い越して通行する時にベルを鳴らしまくり、まるで歩行者を蹴散らして通ってゆく自転車もいる。

 朝の通勤通学時間帯などの誰もが先を急ぐ状態では、大抵自転車の人は不機嫌だ。
 交通法規的には自転車は軽車両、本来なら歩道上は降りて通行するか、歩行者が優先されているが、それはよしとしよう。


 人間、広い歩道を歩く時、空いている方向へ行こうとする習性がある。エスカレーターのように「どちらかを空ける」というルールが浸透していない歩道では、出来るだけ散らばって歩こうとするのが人の心理。例えば右側が空いていればその方向へ行くのが自然な判断、ましてや急ぐ歩行者にとってはそこから抜いて先に進もうとする。
 しかし自転車にしてみればその隙間こそ通り抜けるのに好都合な隙間。かくして歩行者と自転車とで隙間の奪い合いが起こる。

 自転車からしてみればまさにそこを通り抜けようとする時、ふらふらと歩行者が前に割り込んでくる。タイミングが悪いと、通り抜けようとするたびに人とかち合い、まるで意図的に進路を妨害されているようにさえ思えてくる。

 自動車やバイクと違い、走行音がしないので後ろからの接近に気づかない自転車ならではのトラブルである。
 歩道通行用に「チキチキチキ」とか「ブーン」とか音の出る自転車があればもう少し防げるのかもしれない。


情報過多

 スケジュールが過密で忙しい時など、通常の一日の予定では考えられないくらい色々なことをしなければならない。
 特に新幹線や飛行機で長距離を移動する必要があって、しかも日帰りの予定のだったりすると、そのめまぐるしい情報に脳が混乱してしまう。

 

 朝は自宅にいて、高速で流れる風景があって出先の景色がある。その間に見慣れない弁当や出会った人々の記憶があり、そして夜にはいつもと同じように自宅にいる。
 夜、寝る段階になって、その日一日に起こった様々な出来事を順番に整理すると、その情報量の多さに興奮して寝つきが悪くなってしまう。


 移動の疲労というのは、不思議なことに移動時間ではなくて移動距離に比例するという説がある。たとえ短時間でも、高速で長距離を移動すると、同じように椅子に座って寝ていても短距離をゆっくり移動したよりも疲れるというのだ。毎日、普通電車で通勤通学している人が、新幹線や飛行機で同じ時間移動してもやはり距離の長い分疲労が大きいらしい。
 とは言え、普段ほとんど移動しない人から見れば、わずか数駅の電車やバスも大移動に感じるであろうし、毎日飛行機で全国を飛び回る多忙な人もいる。日ごろの慣れや習慣も大きく影響するのだろう。

 例えばミュージシャンが来日して、東京、名古屋、大阪、福岡とコンサートツアーを組む場合、意図的に東京→大阪→福岡→名古屋→東京と組むことがあるそうだ。出来るだけ移動距離が同じくらいになるようにして、スケジュールのペースを崩さないようにする為だとか。


賭け

 子供の頃には、とんでもないことを言うやつがよくいた。
 明らかに信憑性が薄いそんなはずはない、誰もがにわかに信じがたく疑いを持つような事柄に、しかし本人はそうだと言い張る。

 そんな時「命賭けるか?」とか「ウソだったら200万ルーブル払うか?」といった賭けが成り立つ。信用問題の重要性を理解していない子供の世界ではウソに対して罰則がないので仲間内でそのような自治的規律ができる。

 実際には命や現金のやり取りがなされるわけではないが、主張する内容が「新種のクワガタがいた」とか「ピンクのカウンタックを見た」とか、すぐに確かめようもないことで、しっかりとした証拠があって情報の提示者が優位な場合などに賭けを持ち出すことはない。どう見てもウソ臭い、すぐに確かめられようもないものに対して成立する。
 もはやウソを言っているのか、現実がどうなのか争点がずれてきている気がするが・・・。

 言った本人が明らかにウソをついている場合もあるが、勘違いや見間違えの場合もある。事実はともかく賭けの対象が「言ったことを信用するかしないか」という一方的な賭けでは、どちらにとっても不利な賭けである。

では本当だったらどうするのか?
この条件が提示されて、はじめて平等な賭けが成立するのでは?


 一生のうちに数回しか顔を合わせる機会のない親戚の人がいるとします。
 盆暮れ正月に遊びに行ったりして顔を合わせると、お小遣いやお年玉を貰えたので子供心にウハウハだったのだが、兄弟で同時に貰った時、収入額に格差がある場合がある。

年齢からすると当然のことなのだろうけども、ちょと待て

 一生のうちに会う回数が決まっているとすると、そのたびに弟は兄よりも少ない額を貰うことになる。そして大抵の場合、成長と共に同時打ち切りなので、たまたまその機会に年齢が下だったというだけで、弟は総合計で損をしているのだ。

こんなせこいことを考えるのがというものだ。


自己責任法

電子レンジで猫を乾かしたら・・・というア○リカの話はあまりにも有名。
訴訟社会を痛烈に皮肉ったネタ話として語り継がれていると思うが。

 しかし、そんな話も今や笑い話では済まなくなってきている。日本でも企業や学校に理不尽なクレームや無理難題な要求をしてくる、いわゆる「ゴネ得」を狙った人も年々増えているとか。

 それに伴って商品のパッケージや取扱説明書には、これでもかというほど注意書きが書かれている。前もって注意書きがなされていれば、それを守らなければ事故が起こっても責任が持てませんということになるのだが、おかげで説明書には言われなくても判っているような注意書きだらけ。公園の遊具は使用禁止、どこもかしこも立ち入り禁止、そのうち乾電池や爪楊枝の袋にまで「たべられません」と書かれていたり、包丁の取り扱い説明書に「調理として食材の切断以外に使わないでください」と書かれる日が来るような勢いである。

 文句を言いたくなる気持ちもよく判る。事故が起こって、行き場のない怒りをどこにぶつけたらいいのか。
 しかし、いつしか文句を言えば賠償という形で金品がせしめることが出来るということが広まり、それが問題の解決最終形という図式も成り立ってしまった。
 本来ならば、理不尽な要求に対しては容赦なく断ればいいだけの話なのだが、騒ぎを大きくして大衆を味方につければ、体裁を考えた相手に謝罪や賠償を要求出来ることも知ってしまった。

 この調子で行けば「すべてのものやすべての場所には危険がある」、と法律で前提しておかなければならない日が来るかもしれない。
 しかし、その常識の範囲自体がおかしくなっているのだから、下手をすると基本的な生き方までが明文化されそうな勢いである。


いつも思うのだが言いたくても言えない


柿の種を開けるとのにおい。
券を入れる直前に自動改札が閉まるとちょっと傷つく。
大豆が畑の肉というのなら牛肉は牧場の豆である。
傘の柄のフィルムはそのまま使うのか、剥いてから使うのか?
どの時代にも歴史で習う人物以外に、田畑を耕して普通に暮らす人々がいた。
ルビンの壷を英語で言い表すと「フェイストゥーフェイストゥーフェイスイズ」になるのか?
タイミングを合わせて全員一斉に動けば渋滞はなくなる。
麺類を上手にすするには、口の中を真空にすれば大気圧で自動的に口の中に入ってくる。
「背筋を伸ばす」とは実際に伸びているのはであって背筋は伸びていない。
出来るだけ早くお召し上がりください」、そんなこと言わずにゆっくり食わせてくれよ。
鼻がピンクの白い犬はよく吠える。根拠はありません。



画期的な方法を考えついた!
(期待しないで)

 刺身についている大根の千切り、いわゆる刺身のツマ。
 中には海草やシソの葉も乗っていたりして、是非食ってしまいたいのだが、これがなかなか難しい。

 ツマを箸でまとめて掴んで醤油につけようものなら、下手をすると空中崩壊して皿の外まで散乱する恐れがある。最悪醤油の皿にまとめて落下して周辺まで被害が及ぶこともあり大変危険だ。醤油をふんだんに吸った大根は重量が増して崩壊しやすく、運良くそのまま口に運ばれたとしても、四方八方へ飛び出したベクトルが口に押し込む難易度を上げている。

 醤油の付け加減も難しい。まとめて箸で掴んで、その下端を醤油にひたすのに、少しでも目測を誤るとつけ過ぎになってしまうし、保水能力を超えると運搬中に滴ることもある。かといってつけ足りないのも悲しい。何度も試しているうちに空中崩壊し醤油に水没するか皿の外に逃亡、「もうおまえなんか食ってやらん!」となる。

 そこで思いついたこの画期的な方法

 あらかじめほんの少し箸ですくい上げ、醤油につける。当然醤油に水没、真っ黒になってしまうが気にしない。その醤油の染み込んだ大根を再び元の山に戻し、改めてその山全体を箸でわしっと掴み、そのまま口へ持ってゆく。
 少々お行儀の悪い食い方だが、山に直接醤油をかけるよりも確実に量のコントロールが出来る。誰も見ていないスキに食ってしまうのが懸命だと思う。



そうまでして食いたいのか?

食いたいです。


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