管理人の独り言6
ここは管理人しぶーのが日ごろ感じたことや気づいたことを徒然と書き綴るページです。 |
車を運転していて目に入ったもの
ふ ・ と ・ ん?
どうしろというのだーーーー!
トマソンとかそういうものなのだろうか?
いや、もともとそこに何かがあったような形跡も見られない。
増築の予定でのあるのだろうか?
船の碇
掟(おきて)ではなく碇(いかり)。
船が停泊する時に沈める、あの爪のある重り。
流されないようにするには、あの引っかかる形状の重りは非常に効果的であろう。
ところであの碇が、引き揚げようとしたら海底の岩などにしっかりと引っかかっていたらどうするのだろうか?
釣りなどにはよくある根ががりというやつだ。
あの形であるから、実際によく起こりえることではないか?
無理に引き揚げようとすれば、船は沈んでゆく。
そうなったら碇はあきらめて、鎖ごと海に沈めて去ってゆくのだろうか。
でもそうするしかないよなぁ〜
ロゴの秘密
日清食品のカップ○ードルのドは小さい。
お食事処のサが○のがは平仮名。
セブン○レブンの最後のNは何故か小文字。
スタンプのシヤチ○タのヤは小さくない。
デザインか画数の縁起か商標登録の関係か、既に知られていることかもしれないが・・・。
その後、弟子の一人からキヤ○ンのヤも小さくない、との通報がありました。
断末魔?
夜になって、部屋の中からどこからともなくキーンという怪しげな音がする。
以前の記事でライトの音が気になった時のようなかすかな音だ。
いつもはっきりと聞こえるわけではないほどの小さな音だが、耳をある方向に向けると確かに聞こえる。
こりゃ大変だ、何か点けっぱなしのライトがあるのか?
点検するも見つからず。
他に音のするものってなんだろう?
冷蔵庫でもなさそうだし、電話でもない、家電を一つ一つチェックしてゆくが、どれもそんな音は聞こえない。
犬のようにあちこちに耳を向けながら最後にたどり着いたのは・・・。
天井の照明。
電球型蛍光灯と白熱灯の2灯が点いている。
ノイズが出るのは当然電球型蛍光灯かと思ったが、どうも違う。
どうやら白熱電球から聞こえる。
緩めて消したら音はしなくなった。
そして・・・
その電球は二度と点かなかった。
まだやっていたのか
ようやく風呂場の電器を交換しました。
9月に丸型の蛍光灯が切れて以来、ずっとそのままになっておりました。
それまでどうしていたのか?
4ヵ月半の間、懐中電灯の明かりのみを使って風呂に入る生活(かなり下の記事参照)。
すっかり薄暗い風呂生活に慣れてしまい、特になんの疑問も持たずに過ごしておりました。
このイノバもどき、実に優秀で、1日およそ30分の風呂タイム、単三電池1本で2週間は余裕で持つという驚異的なランタイムを誇った。
我が家にあるライトの中で、ある意味最も実用的なライトともいえます。
さて、蛍光灯を交換してみて思ったこと。
明るいの何の!
まあ当たり前のことなのだろうけども、こんなに明るいなんて。
そして、あまりのタイルの汚さに大掃除をしてしまった。
脳内補正
人間の脳は偉大である。
本来見えていないものを、経験や習慣から知らず知らずに補って見ている。
素晴らしく優秀な機能なのだが、何かがトチ狂うと全く違ったものと認識してしまうこともある。
たとえ簡単な文字ですら・・・。
「トレイ」と書かれた文字を一瞬だけチラッと見ると、「トイレ」と認識してしまう。
特にその下に矢印なんか書いてあったら、まず間違いなくそう思うだろう。
食堂の片隅の壁にそう書いてあったら、トイレの矢印なのかトレイ返却口の矢印なのか・・・。
中学生時代、外のそうじ道具置き場に、「ほうき」「ちりとり」などと書かれた中に混じって「ジョレン」というのがあった。
ジョレン(鋤簾)はもともとは農具で、穴の開いた鍬のようなもの、ドブさらいに使うためにあったのだが・・・。
どうしても、横目で見るたびに「ジョンレノン」と読めてしまった。
えとの置物を作っている会社がある。
そこの会社には屋上に「えとの○○」(○○は会社名)と書かれた大きな看板があった。
車で通り過ぎるたびに、一瞬だけ横目で見えるその看板、なぜか平仮名部分だけ間違って読めてしまう。
「はとのえさ○○」
ぜんぜん違うし、字数足りないし。
全国労働金庫協会の看板、平仮名で「ろうきん」と書かれた青い看板が有名。
ビルの横などに縦に掲げられた場合、その平仮名4文字の上に頭文字のRをデザインしたロゴが頭につけらる。
そして「ふろうきん」に見えてしまう。
いや、間違っているのは判ってはいるのだが、いちど脳がそのように認識してしまうとなかなか直らない。
うっかり他人の前で口が滑らないかと心配になってくる時もある。
さて、何を焼こうか・・・
冬になるとストーブの上で焼く餅は風情がある。
雑煮に飽きた正月休みのひと時、焼いた餅に海苔なんぞ巻いて食するのは格別である。
ある時、昼飯替わりの餅を焼いていた時のこと。
一つの餅が大きく膨らんではじけ、金網に絡みついた。
柔らかく膨らんだ餅は熱々で、無理にはがそうとしてもしっかりと絡み付いて取れない。
餅がひっついたままの金網をそのまましまうわけにはいかないので、餅を食い終えても金網をストーブに載せたままにした。
そのまましばらく炙り、固くなってから掃除しようと思った。
しかし、そこにいた女が焼けてあちあちの金網に手を伸ばし、しきりにそのひっついた餅をこそいでいる。
まだ柔らかい餅は、しっかりと金網にこびりつき、熱いだけでそう簡単に取れるはずはない。
あちあちと苦労しながら、必死に金網の掃除をしていた。
「もう少しそのまま置いといいて、すっかり固まってからのほうが簡単にはがせるがな。」
そう言いっても、その女は手を止めようとしない。
その餅を食うためであった。
あこがれの屋台
ドラマや漫画の世界で、高架下の屋台で酒を呑むシーンがある。
特におでん屋、そこで酒を呑むということは、ただ単に屋台で何かを食うという意味以上に重要なシーンとなっている。
宴会のように仲間内でわいわいやるというよりも、一人で仕事のくだをまきながらとか、もしくは数人でじっくりと人生について語りながらといった大人の世界。
大きくなって酒が呑めるようになったら、ぜひあんなことがしたいと思っていたのだが・・・。
どうもこの地方は条例により屋台の営業がだめらしい。
さらに電車はほとんどが地下鉄なので高架が少ない。
そしてなにより、酒呑まん。
なにもわざわざ変えんでも・・・
ここ最近、いくつかのメーカーのロゴが変わった。
メーカーのロゴが変わることなど今や珍しくもなんともないのだが、果たして新しくする必要があるのか?というようなものまで変わってしまった。
企業の合併などで社名が変わることも多く、二つの名前を合体させたりまったく新たな名前になるのは致し方ない。
しかし、経営陣や方針が変わったからと言って社名やロゴを変えるのはいかがなものか。
タレントが急に名前の一字を変えたりするのは事務所が変わったせいか?
新しくなって、「前とは違う」と印象付けるのが目的なのだろうけど、長年慣れ親しんできた名前やロゴが変わると、頭が切り替わるまでしばらく時間がかかってしまう。
田舎の古い看板や、古い家電に昔のロゴがついているのを見つけたりすると、妙に懐かしさがこみ上げてくる。
製品もまたしかり。
使いやすいと思っていたものが気がつけば廃番になり、後継機種はデザインが変更されてしまっていることが多い。
機能面では新しいほうが優れていることが圧倒的に多いのだが、古いものは修理代のほうが高かったりして気に入ったデザインの物がずっと使えないという難点もある。
話題性や目新しさなどによって売り上げを伸ばすのは大切なのだろうけども、消費文化を助長するような生産体制も見直すべきではないかと思う。
歴史と伝統を頑なに守り、古きよき物を残すという姿勢も大切なのではないかと思う。
毎年恒例の祭り
年の瀬のスーパーは、一種異様な盛り上がりを見せる。
一種のお祭りだ。
同じようなものでは、近所の魚市場のこともあれば、東京ではアメヤ横丁など、盛大な買い物客でごった返す。
バレンタインはチョコレート業界の祭り
クリスマスはケーキ屋の祭り
盆と年末はスーパー魚介業界の祭り
どこも必ずお正月用品特設コーナーが出来ていて、中にはよく考えれば全く関係ないものまで売られていて、ドサクサ紛れに何でも行ってまえー的で笑える。
普段は見かけないような高価な食材や珍味がわんさか、普段は金額に厳しいかーちゃん達も、「まあいいじゃないか」というとーちゃんの言葉につられて、いつも倹約している反動とばかりに高い食材を買い漁る。
普段と同じように買い物をするだけで軽くいつもの3倍くらいの金額に達してしまう。
今宵はみんな、
蟹鍋やるんだなあ・・・
そば食うんだなあ・・・
家族そろってすき焼き食うんだなあ・・・。
まだまだ暖冬
しぶーのは犬のように寒さに強い。
分厚い皮下脂肪に守られ、他の人が寒い寒いと言っている所でも何ともないことも多い。
寒い日に出かける用事があるとき、自宅から最寄の地下鉄駅まで歩いて数分でたどり着く。
そして目的地が駅から近かったりすると、たどり着くまでに冬の寒空の下にさらされるのはほんの僅かの距離だったりする。
地下鉄の中や建物の中は暖房が効いているので、冬の格好では正直暑い。
僅かな地上を歩く時間に合わせ防寒するか、暖房の効いた車内や室内に合わせ身軽な格好をするか。
考えた結果、寒さに耐え身軽な格好を選んだ。
そして今日、ようやく上着を押入れから出しました。
時は12月末。
コントラバスの一部にしかわからない苦労
オーケストラや弦楽合奏において、弦楽器パートは通常二人一組で1プルトと呼ばれ、二人で一つの楽譜を見ます。編成の大きさを数える時も人数ではなくこのプルト数で言うことが多い。
この二人一組の中にも表と裏という役割があり、譜めくりをするのは裏の人の仕事。楽譜が数ページに渡る長い曲になると、当然途中で楽譜をめくらなければならない。
演奏に支障がないように、ページの境目は出来るだけ演奏の切れ目に来るようにパート譜は書かれているが、中にはめくる余裕がほんの僅かしかない場合もある。そんな時には裏の人が犠牲になり、表の人の演奏が途切れないように一瞬の隙にタイミングよくめくる。
楽譜をめくるだけなのに、結構熟練が必要なこともある。
オーケストラの中のコントラバスは、通称バス椅子と呼ばれる専用の椅子に腰掛けて演奏する。普通の椅子に腰掛ける感覚とは違い、ちょこんと半ケツのっけて寄りかかるような感覚である。
楽器が大きいので当然広いスペースを必要とし、二人の間に置かれた譜面台までの距離も遠く、椅子に座ったまま手を伸ばしても大抵譜面まで届かない。
なのでコントラバスは、楽譜をめくるたびに立ち上がる必要がある。
↑こんな椅子
この譜めくり、慣れてしまえばどうってことないが、燕尾服の時にはちょっと苦労する。
燕尾服は背中側が長く、あの尻尾がある。
椅子に座る時には手を後ろに回し尻尾をぴょんと跳ね上げなければ必ず尻尾を踏んでしまうのだ。
(ページの最後まで演奏が終わると同時に)
弓を持つ右手で楽器のネックを支え、楽器を立てる。
↓
椅子から立ち上がる。
↓
左手を伸ばし、楽譜のページをめくる。
↓
その左手を背後に回し、燕尾服の尻尾をぴょん。
↓
楽器のネックを左手に持ち替え椅子に座る。
↓
演奏再開。
これらの一連の動作を滞りなく、素早く行わなければならないが、当然そんな余裕がない場面も多い。
そんな時は仕方なく、尻尾を踏んだまま休みの小節が来るまで演奏し続ける。
結構演奏しづらいのだ。
師走の風物詩とは
世間はすっかり師走、毎年忙しさにかまけて花鳥風月など堪能する暇もないが、温暖化の影響か今年も妙に暖かい。
寒さに関しては先月と大して変わらず、12月も半ばだというのにぜんぜん冬の感じがしない。
それでも街はクリスマスのイルミネーションを飾りつけ、音楽を流し、しきりに年の瀬感を演出している。
毎年思うのだが、スーパーにはクリスマス関連の食品が売られている。
普段は見かけない立派なローストチキンやオードブル詰め合わせなど、ご丁寧にクリスマスの飾りシールが張られているのですぐにそれとわかる。
たしかクリスマスイブまで、まだだいぶ先だというのに。
まさかクリスマスに向けて今から買い置きしておくわけではあるまい。
つまり、12月になると世間のどこかでは早々とフライングクリスマス会が行われているということになる。
そして25日が過ぎれば同じような内容のものがお正月のシールが貼られて売られている。
正月までまだ一週間近くあるというのに。
断面が??
人に物事を伝える時に、何かに喩えると非常に分かりやすい時がある。
車のワイパーゴムの交換をしようと買いに行ったときのこと。
このワイパーのゴムにはメーカーや車種によって形や長さが違う。
さらに車種がわかっても年式によって変わることもあるので難しい。
長さは長かった場合には後で切ればいい。
要は断面の形が一致して、取り付けれればよい。
というわけで、
断面がしあわせのやつ。
こんなタイプ。
適応表で見ると「山型トンネルタイプ」というらしい。
本番中の虫
虫?
何やら音楽の何かを虫に喩えた話のようだが、実際の昆虫の虫のこと。
自然界にはそこかしこに虫がいる。
特に茶色で平べったいヤツはどこにでも出没する。
それは台所に限らず、餌になるものなど何もないと思われるステージの上にも出ることがある。
あるピアノリサイタルでのこと、うら若き女性ピアニストがステージ中央で演奏中に一匹の茶色いヤツが現れた。律儀にもステージ袖の下手(客席からステージを見て左側、演奏者が出入りする方)から登場した。
遠くの客席からもはっきりその存在がわかる、結構大型の立派なヤツだ。
演奏中のピアニストには、背後からなので気がつかない。その黒い影は動いては止まり動いては止まり、じわじわとステージ中央へと近づいていった。
その不穏な動きはもう演奏を聞くどころではない。果たして何が起こるのか、観客はひやひやしながら見固唾を呑んで守るしかなかった。
袖に待機するスタッフも、まさか演奏中に出て行くわけにも行くまい。
ピアニストが気付いたらどうなってしまうのだろう?
演奏を中断して逃げるのか?
構わず弾き続けるのか?
ピアニストがパニックになったら虫も驚いて客席のほうに来やしないだろうか?
そんな場違いな空気を感じ取ったのか判らないが、その虫はやがて出て来た下手袖へと戻っていった。
客席は得体の知れない安堵感に包まれ、何も知らないピアニストはひときわ大きな拍手に見送られて袖に戻っていった。
本番中のピアニストは集中しているので、床など見ている余裕はなく、鍵盤上に現れたならともかく、足元をうろついても気付かないかもしれない。
馬鹿もん死刑じゃ
世間は相変わらず不景気なせいか、悲惨なニュースが多い。
そして今はインターネットによって世間の人々の意見が即座に文字となって反映される時代になった。
ネットのニュースのコメント欄や掲示板を見ていると、極刑を望む人々が実に多い。
「こんなヤツには死刑を望む」、とか「一生刑務所から出させるな」とか。
ハムラビ法典にある「目には目を、歯には歯を」という言葉があるが、やられたらやり返せと言う意味ではなく、感情に任せて必要以上の仕返しをしてはならないという戒めであることは有名。
人は感情の生き物、罪を憎むことは平和や治安を守るために大切なことだが、正義感のあまり、逆に加害者になってしまう恐れもある。と、大昔から同じようなことを言っていたということか・・・。
どの人間も、憎き悪者やケンカした相手を死んじまえと思ったことは一度や二度ではないはず。
もしも、すべての人の願い事がかなうのならば、世の中みんな死んでしまう。
(そうはならないことは重々わかっているので、そのようなことを口走るのだが)
裁判員制度は大丈夫なのだろうか?
同じ数だけいるはず
通常スーパーでで売られているししゃもはどういうわけだかメスばっかり。
腹にたわわに卵を抱えたメスは食って美味いのだからしかたがない。
とはいえメスがいるのだから当然オスもいるはずである。
捕まえたししゃもの半分はオスのはずだから、そのオスはどうなったか気になる。
実はあまり流通していないが、売られているらしい。
メスは卵にほとんど栄養をとられてしまうが、その反面オスは身の部分に脂が乗っていて美味いのだとか。
結局食われてしまうわけね。
やらなければ判らない事もある。
流しで食器を洗っている時のこと。
お椀を洗っていて、つい手が滑って裏のちょうどど真ん中の部分を親指でぶち抜いてしまった。運悪くど真ん中に力が集中したのか、見事に親指大の穴が開いてしまった。
円い食器は中心に親指を置いてそこを支点に回して洗うのだが、泡だらけだったので滑らないように少々力が入ってしまったのか?ヒビ割れてメリメリと突き抜けるのではなく、一瞬にしてぽっかりと穴が開いてしまった。
お椀はプラスチック製で、100均でよくあるような安物、大して損害もないのの、
予期せぬハプニングに、穴の開いた椀を持ってしばし呆然。←1
(再現映像)
しかし、特に猛烈な力をかけて洗っていた記憶もないし、知らず知らずのうちにそんな怪力を出してしまったのか?
いやいや、そんなはずはない、きっとヒビが入っていて割れる寸前だったに違いない。だとすれば使用中に割れて汁物ぶちまいてやけどでもしなかっただけよかったのだろう。まさかそんな簡単に穴が開くはずがない。
そう思い、別の椀を手にする。
うむ、ヒビのない椀はそんなに簡単には割れすはずないのだ。
あれっ?
手には見事に親指穴の開いた椀が・・・。←2
ちょっと待てよ、これはそんなに簡単に穴の開くものなのか?それとも2つともたまたまヒビが入っていたのか?しかしこの椀がそんなに簡単に穴が開くというものならば、今後その取り扱いはそのことを考慮しなければならん。たまたま偶然二つ立て続けに穴が開いたものなのか、それとも椀自体の強度があまりないものなのか、これはこの場で確かめておかねば。
別の椀をゆっくり押してみる。
ほら、大丈夫だ。
やっぱり、さっきのは偶然だ。
そんな簡単に穴が開くはずは・・・
簡単に穴が開いた。←3
かくして一瞬のうちに3つの椀が使い物にならなくなった。
つまり、プラスチックの椀の底の強度は、思ったほど強くはない。
決して試さないでください。
花泥棒
気がつけば、しばらく前から工事中だった駅前の居酒屋がオープンしていた。
店の前には絢爛豪華な花輪が並び、派手で賑やかなのが好きな名古屋ならではの風景。
のはずだが・・・。
どう見ても葉っぱだけの地味な花輪である。
いや、これは花輪といっていいのだろうか。
確かに開店前にはありました。
立派な花輪が並んでいたはずです。
この地方では、開店と同時に人々が花輪に群がり、一斉に花を引っこ抜いて持っていってしまう。
豪華だった花輪は見る見る丸坊主にされ、その結果店先にはこのように葉っぱだけ残った花輪が飾られているのであった。
誰が始めたか花泥棒、今では早く持っていかれたほうが縁起がいいとさえ言われている。
嫌いなもの
嫌いな食い物の話になると、「本当に美味い○○を食ったことがないのではないか?」という人が多い。
自分の好物が他人の嫌いなものと言われると信じられないのは判るが、それはそれで失礼な話だ。
好きな人に、具体的にどこらへんが好きなのか?
嫌いな人に、具体的にどこらへんが嫌いなのか?
だいたいこの二つは一致する。
釣り
ある飯屋に入った時のこと。
エビフライカレーを頼んだのだが、これがまたハズレだった。
まず期待したエビフライは外の見本に比べものにならないほど小さかった。まあこれはよくあることだし、見本を作ったときに比べ海老の値段が高騰でもすれば致し方ない。にしても大きさ約2/3程度、許容範囲ぎりぎりの小ささだった。
しかも分厚い衣は揚げすぎていてゴジゴジ、微妙に苦味があって味もよくわからない。
ご飯はどんな水加減で炊いたのか、米粒が判らないようなべちゃべちゃ、まるでジャーが壊れたときのような状態。
カレーも後から芋を加えるという努力は評価するものの、これといって特徴もなく・・・。
正直、総合評価丙丁つけがたい出来であった。
こうなったらやることはただ一つ。
出来るだけ美味そうに食ってやる!
皿の上はなるべく初期状態の見た目を崩さぬようにキープしながら、一口の量を大きく、咀嚼中も次の一口の準備をしながら、ぜんぜん熱くないけどハフハフと熱いようなフリをする。
わざとらしく鼻をすすって汗なんぞ拭いながら、一心不乱に食う!いかにも辛いですよー熱いですよー美味いですよー、と。
かくしてめでたく、後から隣に座ったカップルの男のほうがエビフライカレーを注文していた。
ひょっひょっひょっひょっ!
またややこしいことになっている
スーパーに買い物に行ったら地元の球団の応援歌が流れていた。
そういえばついこの前胴上げやっていたニュースを見たが、地元の球団ではなかったはずだ。きっとシーズンが終了して残念でしたお疲れ様セールでもやっているのだろう。
と思っていたら、何やらニュースで見かけたが、まだやってたのか。
この前リーグ戦が終わったのではないのか?
なに?
CS?
野球をほとんど見ない身にとっても、この仕組みには少々疑問を感じる。
これではリーグで優勝しても胴上げなんぞやっている余裕などないのでは?
流される
気がつくとバナナが店頭から消えていた。
元ネタは判らないが、大体察しがつく。
おそらく雑誌かテレビで話題になったダイエット法なのだろう。
そういえば納豆が買えなかった日々が記憶に新しい。
このようなブームの結末は大体見えている。
結果が出ないので疑問に思う。
↓
偉い人(大学教授とか)からこの方法の弊害が指摘される。
↓
一気にあきらめムードが広まる。
↓
いつの日か忘れ去られる。
いつの間にかコーヒーになっていた
今も昔も変わらぬ味、この○印コーヒーは幼少の頃からずっとある。
本当は微妙にマイナーチェンジしているはずだが。
パッケージには1963と書いてあるのでおよそ45年前からあったということになる。
分類的には乳飲料、コーヒー牛乳というよりもこれはこれで完成された新たな飲み物でファンも多い。色々な会社から類似商品も多いが、いつまでたってもこの味は忘れられない。さすがロングセラー商品の代表といっていいだろう。
最近気がついたが、いつの間にやらコーヒーになっていた。
ちょっと前までフーヒーだった。
聞かなかったことに・・・
ドイツにピラストロ(PIRASTRO)社という有名な弦メーカがあり、その中のブランドの一つにEUDOXAというガット弦があります。同じ会社の弦でオリーブ(OLIVE)と並ぶ有名な弦で、音色は華やかなOLIVEと対極的に柔らかな音色が特徴、オーケストラプレイヤーなどに人気がある弦。
古代ギリシャの数学者・天文学者エウドクサス(EUDOXOS)にちなんだ名前なのだろうか?EUDOXAはドイツ語読みでオイドクサ。
「おいど」とは「御居処」、いどは座る所という意味で尻のことを指す。
おいど臭〜っ!
ジェット機に使われる巨大な樽のようなターボファンジェットエンジンは、主翼の下側に取り付けられていることが多い。飛行機の型式によっては後方の垂直尾翼や水平尾翼付近につけられていることもあるが、主翼の下側についている場合はエンジンナセルというパーツによって、主翼から前に飛び出す形で吊り下げられている。
飛行機の主翼は燃料タンクを兼ねているので、万一着陸の姿勢を崩して地面と接触する事故が起こって燃料が漏れた時に、火種であるエンジンがそばにあると大惨事を招きかねない。
そこで主翼よりも先にエンジンが地面に接触した時に、その衝撃でエンジンナセルがこわれ、意図的にもげて主翼から分離するように設計されている。
最悪の事態でも、出来るだけ被害を食い止められるように設計されているのだ。
さすが、エンジンナセルの成せる技!
何を食えばいいのだろうか?
ここ最近、食品業界が大変なことになっているようだ。
賞味期限や産地を偽装したり有害物質が含まれていたりと次から次へ事件が出てくる。
一時代昔ならば暗黙の了解や揉み消し工作で今のように大事にはならなかったことかもしれないが、実際に健康被害が出てしまっているのだから問題である。
格安の粗悪品を本来の値段で販売するのは言語道断であるが、食品業界に限らず、消費者があまりに安さを追求した結果でもある。
消費者も、製品が出来るだけ安く買えるのはうれしいが、それはすなわち製造者や販売者に対して「儲けるな」と言うのに等しい。
もともと仕入れの単価に利益を乗せた定価というものが設定されているのだが、値引きをするということは利益を抑えるということ。本来は支払われるべき部分を安く押さえるということは何らかの部分で損害が出る(利益が減る)ということ。
出来るだけ安く仕入れ安く販売することが企業努力と言えなくもないが、必要以上に安さを追求するあまり、品質などの削ってはいけない部分を削らざるを得ない企業も出てくる。
不景気ゆえに収入が減り、消費者が購入価格を抑えるあまり、労働力や技術が海外に移り、結果として日本国内の労働力があぶれるという悪循環、皮肉な結果にもなっている。
と、かなり昔からそのことは語られている。
テレビや雑誌で専門家が語るように、日本の経済は危機に瀕していると言ってもいいと思う。
実際に会社が倒産したりリストラされたり、株が紙切れになったりという目にあった当事者達は痛いほど実感が沸くことだろう。
しかし本来は国民全体にかかわることであるが、結局は他人事なのである。
給料が減らされたり、安全でない食品がばら撒かれたりして、実際の被害をこうむってから初めて気がつくのでは遅い。
愛知県無事だよ
今日は2008年9月13日。
なにやら世間では大地震があるというまことしやかな予言がささやかれていた日であった。
未来のことがわかったらどんなにいいことだろう、とも思えるが、変えることのできない未来がわかったところであまりうれしくないような気がする。またこの手の予言は歴史上数え切れないほどあったという。中には宗教と絡んで「災いが来ると予言→祈りなさい→何も起こらなかった→神のおかげ」というようなことにも使われているとか。
近いところでは地球が滅亡すると言われていたことも記憶に新しい。
この手の予言はいくつかの共通した点がある。
場所や日時が曖昧。
そのものずばりを予言しているのではなく、暗号めいていたり解釈がいく通りも出来たり範囲に幅があったりすることが多い。
様々なデマや憶測が飛び交い、もはやどれが本当かわからなくなっている。
せめてもっとはっきりした場所や日時まで言い当てて欲しい。
本人はかかわりがない。
予言した本人は当の昔に死んでいたり、遠く離れた所にいたりする。
(おーーーい!!)
近い将来、自分の身に降りかかる災難がわかると言うならば納得ができなくもない。
虫の知らせやいやな予感など、動物の本能として危険を察知する能力が発揮されるというのなら判るが、遠い未来の出来事までわかるというのも不思議な話である。
予言は外れたほうがいい。
大地震だの洪水だの隕石だの、どれもあたって欲しくない予言ばかりである。
そもそも人々が興味がある予言は、自分にかかわりがあることなので当然と言えば当然のことなのだが。
この地球上、一たび何かがトチ狂えばいつ自然災害が起こってもおかしくはない。
無理やり予言が当たったとこじつけることもできてしまう(これは預言者本人ではなくて後の人々のせいか)。
やみくもに予言に振り回されてパニックになることはいただけないが、そもそも地震などいつ来てもおかしくないこの日本。今一度防災用品のチェックや避難経路の確認など、防災意識を高めることは悪いことではないので、結果的にはまあよかったのではないだろうか・・・。
美味いからしょうがない
静岡のオーケストラにお呼ばれして仕事に行った時のこと。
休憩時間に弁当が出て、その片隅に一片の細長い魚らしきものが入っていた。
アレですよアレ、浜名湖名産の。
黙々と弁当をいただくエキストラ奏者の楽屋で、その魚片を口にした人は小声でつぶやく。
「鰻だ・・・。」
さすが静岡県の弁当!
(なんのこっちゃ!)
いや、鰻かどうか一目見たら判るし、わざわざ言うことでもない。
そう思っていても、一口口に含むと言ってしまう。
「鰻だ・・・。」
「鰻だ・・・。」
「鰻だ・・・。」
小さいながらもその魚片は、片隅にほんの少し入っているだけでハッピー弁当になってしまうほど強力なパワーを放っていた。
かくして本番前の静かな楽屋のあちこちから、「鰻だ・・・」の声が聞こえてきたのだった・・・。
そんな様子を面白く眺めつつ、気がつけば自分もつぶやいていた。
「鰻だ・・・。」
どうせ皆やっているさ
風呂場の蛍光灯が切れたので、これ幸いとばかりにライト生活。
普段、町を歩く時には街灯が多くて使う必要もなく、散歩に行く犬もいない。
わざわざ猿投の山中まで出かけて行かないと活躍の場がないライトに、今こそ活躍の場である。
残念ながら手持ちのライトの中で完全防水のライトは少ない。
一応水没OKものもあるが、そう信じて沈めたら浸水したと言う話もよく聞く。
通称イノバもどき。
単三電池一本でコンバータ搭載、5mm砲弾LED5灯を駆動、遠射はほとんど効かないが手元をまんべんなく照らすには最高のライト。
ピコリ5やコスモサーチなど名前を変えてあちこちに出没しているが、実はバリエーションも微妙にあってヘッドがアルミの物と樹脂の物の二種類がある。アルミのヘッドは角が落としてあり、樹脂のヘッドは縁がついている。ツイストテールスイッチの滑り止めも二種類ある。
内臓のコンバータは恐らく入力電圧を単純増幅するのみ、明るさもダラ下がりですが、実用に耐えうる暗さまでのランタイムはすこぶる長く、あまり電池交換の記憶がないほど省エネ。
もともとついていた得体の知れないLEDは青白かったので日亜の500CSに交換しました。分解してコンバータからLEDの隙間など、隅々までエポキシ樹脂を流し込み、唯一の隙間であるテール部分のパッキンも太い物に交換、完全防水型のライトにしました。全天候型実用品として、ある意味我が家で最も活躍しているライトかもしれない。
ただしアルミの質や表面仕上げはよろしくないようで、テールのねじ山は使うたびに激しく磨り減ってきますが・・・。
逆さに自立するのも便利さの一つ。
近場を照らすぶんには、暗闇で使えばまずまずの明るさ、目が慣れるとほとんど不自由せず風呂に入れる。
砲弾型LEDは水につけるとレンズ効果がなくなり超ワイド照射。
う〜ん・・・
熱帯魚になった気分だ。
健康ランド?
食い食いオーラ
群れで暮らす鶏の、その中の一匹に隅っこでこっそり餌を食わかさすと、それはそれは嬉しそうに「ココココ!」と喉から鳴くような声を出す。
その声を聞きつけてか、仲間のヤツらも一斉にわらわらと集まってくる。
黙って食えば独り占めできるのに。
かと思えば、鳴かない公園のハトも、仲間の一匹が餌にありつけると、見えないところからも一斉に飛び立って集まってくる。
うちのインコも人様が飯の時間になると狂ったように騒ぎ出す。
実際には食卓の上の人のものを欲しがるわけでもなく、ただ人が餌にありついている姿に焦りを感じるらしい。
(勝手に小屋に戻って食えばいいのに。)
生き物たちの、餌に対する連係プレーを見ていると、とても視覚や聴覚だけに頼っているようにも見えないところがある。
生き物は美味な物にありつくと脳内麻薬が出る。
と同時に、何か電波のようなものが出ているのだろうか?
これからの広告
今は家にいながら、世界中の様子がインターネットで見ることの出来る便利な時代になった。
地図や航空写真を眺めるのが好きな人も多いのではと思う。
ここは名古屋の中心地のオフィス街。
中央付近に縦長に見えるのはヒルトンホテル。
上空から見たのではあまり高さを感じないが、この辺りではひときわ高い建物。
Google マップより名古屋市中区
ズームアップ!
ヒルトンホテルのすぐ右横の建物、屋根の上に赤い文字でなにやら描いてある。
この建物も影が示すように、結構な高さのある建物。
この文字は下から眺めたのでは決して見ることが出来ない。
そして、画面右上隅の建物の屋上にも何かある。
「SUSHI」
すし!?
これらの広告、ヒルトンホテルに泊まった客が見下ろすことを考えて掲げられている。
下界を歩いていてはその存在すら気づかない。
これからの時代は、このように今まで普通では見ることのなかった屋根の上やビルの屋上を、誰でも見られる時代になってきた。
これまでの下に向かっての広告の他に、工場の広い屋上や敷地内の芝生などを使って、上空に向かっての広告も広がってゆくことになるのではないだろうか?
猛暑?冷夏?
「9月1日に突然空が高くなる」という法則があるが、世間ではまだ8月末だというのに、今年はやけに涼しくなるのが早い。
もちろんこれは一時的で、9月になれば例年と同じような残暑の厳しい日々になると思うが、今や夏も終わろうとしている。
恐らく今年の最高気温も出尽くし、多少の上下はあってもこれから秋に向かってますます涼しくなってゆくのでしょう。
今年の夏も暑かった。
しかし、今梅雨時期に暑くなるのも遅かったので、結果として本当にたまらなく暑かった日はそう長くない。
果たして今年の夏は平年並みなのか?
これでも平均すれば冷夏になってしまうのだろうか?
カラカラの正体
夏にうってつけの日焼け止め。
クール成分が入って、塗った後にひんやりと気持ちいい。
塗る前にはカラカラとよく振って、中身を混ぜてから使います。
中に玉が入っていて攪拌されます。
当然どんな玉が入っているのか見たい。
見たい?
そりゃあ見たいよなぁ〜
こうした理由で今までゲットした玉たち。
アブラゼミ
みわわわわわ・・・・
夏の風物詩アブラゼミ。
コイツが鳴き出すと梅雨があけ、本格的な夏の到来の合図だ。
誰がつけたかこの名前、どの子供も物心ついて初めて聞いたときから何の疑いもなくこの虫を思い浮かべる。
そのくらい、いかにもどこにでもいてギトギトしていて暑苦しいイメージにぴったりなのである。
冷静に考えると、油を好んで食するわけでもなく、台所に潜むブリ太郎のように表面がアブラでテカテカしているわけでもなく、触った感じも他のセミと変わらずカサカサしている。
一説によるとじりじりという鳴き声が油で揚げる音に似ているという説があるそうだが、
そこには「暑いんじゃ、コノヤロー!」という感情が大いに含まれている気がしてならない。
複雑な思い
月に二回ほどレッスンに行く場所があって、その会場の隣は空き地というか湿地帯になっていた。
昔の田んぼの跡なのだろうか、荒れ放題で草も伸び放題だったが、住宅地の谷間にあるその空き地にはいつも眺めるたびにキジや水鳥がウロウロしている姿があった。人間にとっては何の役にも立たない土地ではあるが、野生の動物達にとってはオアシスのような存在、周りを住宅に囲まれながらもその湿地内では生態系が見られ、それらを休憩時間に眺めるのは一種の楽しみになっていた。
しかしある時異変は訪れた。
その空き地に重機が入り大量の土砂が運び込まれ、湿地はみるみる埋め立てられていった。半月ごとに眺めるその緑豊かだった空き地はやがて見るも無残な姿、茶一色の道と階段状の平地になってしまった。
ここで暮らしていた生き物達はどこへ追いやられてしまったのだろうか?人間の都合による自然破壊。こんな所まで宅地造成の魔の手が伸びているとは、利益を追求するあまり、また一つ重大な何かが失われてしまった気がした。
と、変わり果てた空き地の姿を眺めながら憂鬱になっていたが、いつものように半月ほど経ってから訪れてみると、さらに驚きの光景が広がっていた。
階段状になった土地には作物が植えられ、埋め立てられた空き地一面が緑の農地になっていた。
こここ、これは。
う〜む、何と申してよいのやら・・・。
宅地になるよりはよっぽどましだと思うが、非常にコメントに困る結末となっていた・・・。